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  • 家は本当に資産なのか――人口減少時代に変わる住宅の資産価値

    モンゴルの大草原の土地とウランバートルのマンションで考える もともと私は、家を「資産」として考えたことがほとんどありませんでした。 日本では、家は住むためのもの。 そんな感覚の方が強かったからです。 海外では、家や不動産を資産として考える国も多くあります。 その背景には、子どもの頃から投資や資産形成について触れる機会が比較的多いことも、一つの理由なのかもしれません。 私自身は、そうした教育を受けてきませんでした。 だから若い頃は、家を資産として見るという発想そのものが、ほとんどありませんでした。 しかし、自分で投資を始めてから考え方が変わりました。 「そもそも資産とは何なのか?」 そう考えるようになったからです。 私は今、資産の価値とは、国や市町村が決めた評価額でも、不動産会社が提示する査定額でもないと思っています。 大切なのは、 その金額で、実際に買ってくれる人がいるかどうか。 最終的には、そこだと思います。 たとえば現金なら、100万円は基本的に100万円として使えます。 では、車はどうでしょう。 新車で買って5年後には大きく価値が下がってしまう車もあれば、希少性が高く、5年乗ったあとでも買った時とほとんど同じ金額で売れる車もあります。 仮に500万円で買った車に5年間乗り、その後500万円で売れたとします。 もちろん税金や保険、整備費などは別にかかります。 しかし、車そのものの購入費だけを見れば、 その5年間に乗っていた費用は実質ほぼゼロだった と考えることができます。 私は、これが資産価値を考えるうえで、とても分かりやすい原理だと思っています。 そして家も、基本的には同じです。 たとえば4,000万円で家を購入し、10年間住んだあとに4,000万円で売ることができたとします。 修繕費、税金、ローン金利などは別として、売買価格だけを見れば、その10年間に使った購入費は実質的にかなり小さかったことになります。 逆に、3,000万円で買った家が10年後に1,000万円でしか売れなければ、2,000万円分の価値が失われたことになります。 だから私は、住宅についても、 「いくらで買うか」以上に「将来いくらで売れるか」 が重要だと考えるようになりました。 私自身、投資を始めるまでは、家をこうした「資産価値」という視点で考えたことはありませんでした。 しかし投資を始めてから、 「買った時の価格」ではなく、「使ったあとにいくらで売れるのか」 を見るようになりました。 その考え方を住宅にも当てはめてみると、家の見え方が大きく変わったのです。 たとえば駅の近くの土地やマンションを見て、 「高いな」 と感じることがあります。 一方、郊外へ行けば、同じ予算でも土地は広くなり、大きな家を建てることができます。 購入時だけを見ると、郊外の方が得に見えるかもしれません。 しかし本当に大切なのは、その先です。 駅に近く、車がなくても生活でき、病院やスーパー、学校、商業施設などがそろっている場所であれば、20年後、30年後にも「住みたい」と思う人が残っている可能性があります。 一方、人口が減り、生活に車が必要で、周囲から店や病院、公共交通まで減っていく場所では、家そのものが立派でも、買い手が見つからなくなる可能性があります。 そうなると、最初に安く買ったつもりでも、最終的にはそちらの方が大きな損失になることがあります。 もっと分かりやすく言えば、 モンゴルの大草原に無料同然の広い土地をもらって大きな家を建てるか、ウランバートルにマンションを買うかという話に近いかもしれません。 大草原の土地は広く、建てられる家も大きくできます。しかも土地代がほとんどかからなければ、最初はとても得に見えるでしょう。 しかし、将来その家を売ろうと思った時に、そこに住みたい人がどれだけいるのかは別問題です。車がなければ生活しにくく、病院や店、学校、仕事の場からも遠ければ、立派な家を建てても買い手は限られます。 一方、ウランバートルのマンションは、購入時の価格だけ見れば高く感じるかもしれません。それでも、人が集まり、仕事があり、生活の利便性が高い場所であれば、将来も「そこに住みたい」と思う人が残る可能性があります。 つまり重要なのは、 最初に安く手に入るかどうかではなく、最後に欲しいと思う人がいるかどうか。 家の価値は、広さや豪華さだけで決まるのではありません。その場所に、将来も住みたい人がいるかどうか。そこが、これからの時代にはますます重要になってくるのだと思います。 つまり、 駅の近くは高いから損なのではありません。 高く買っても、その価値が残り、将来同じような価格で売れるのであれば、結果として損失は小さくなる可能性があります。 逆に、郊外で安く買っても、将来ほとんど売れなくなれば、結果としてそちらの方が高い買い物になるかもしれません。 極端な話、0円でもらった土地なら、多少価値が下がっても購入価格という意味での損失はありません。 しかし、これから日本で何千万円という金額を払って家を買うのであれば、話はまったく違います。 そして、この視点で考えると、海外の大都市でマンションや集合住宅が多いことにも、少し納得できる部分があります。 もちろん、人口密度、土地価格、都市計画、交通事情など、理由は国や都市によって違います。 ただ、資産価値という視点から見ても、駅や商業施設、学校、病院などが集まる便利な場所に、多くの人が住めるマンションが建っていることには合理性があります。 便利な場所であれば、将来売却する時にも次の買い手を見つけやすいからです。 一方、一戸建ては広い土地を必要とします。 便利な都市部で一戸建てを持とうとすれば、当然価格も高くなります。 国や都市によっては、中心部の一戸建てに住んでいる人は比較的裕福な層が多く、一般家庭はマンションや集合住宅を選ぶという構造も見られます。 日本では長い間、 「家を持つなら土地付き一戸建て」 という考え方が強かったように思います。 しかし人口が減る時代では、 土地が広いことよりも、将来もその場所を欲しいと思う人がいるかどうかの方が重要になるのかもしれません。 郊外の大きな一戸建てよりも、駅や生活施設に近い比較的小さなマンションの方が、結果として資産価値を保ちやすい場合もあります。 そして、もう一つこれから重要になると思うのが、 「家にどこまで個性を出すか」 という問題です。 これも車で考えると分かりやすいです。 車を自分好みにドレスアップするのは楽しいことです。 しかし、あまりに個性的に改造してしまうと、売る時には買い手が限られ、思ったほど値段が付かないことがあります。 自分にとっては価値が高くても、次に買う人にとって価値があるとは限らないからです。 住宅も同じではないでしょうか。 注文住宅で、自分の生活に合わせて間取りや設備、デザインに強い個性を出すことがあります。 住んでいる間は、それでいいと思います。 しかし、将来売却する可能性まで考えるのであれば、 「自分が欲しい家」だけではなく、「次の人も欲しい家か」 という視点も必要になります。 特殊な間取り。 極端に大きな家。 維持費のかかる設備。 好みの分かれる外観や内装。 こうしたものは、建てた本人にとっては理想でも、売却時には買い手を狭める可能性があります。 車で言えば、純正の状態なら多くの人が買えるのに、強いドレスアップをしたことで買いい人が限られてしまうのと似ています。 つまり住宅も、 個性を出すほど資産価値が上がるとは限らない。 むしろ人口が減り、買い手そのものが少なくなる時代では、 「多くの人が使いやすいこと」 も大きな価値になるのかもしれません。 これから住宅を建てる人にとっては、 立地だけでなく、建物そのものの「売りやすさ」まで考える。 これも今まで以上に重要になってくると思います。 そして、よく聞くのが、 「家賃を払い続けるくらいなら、家を買った方がいい」 という考え方です。 もちろん、これも一つの考え方だと思います。 しかし私は、家を「家賃の代わり」として買うのであれば、むしろ今まで話してきた資産価値の考え方が、さらに重要になると思っています。 たとえば、 「今の家賃が月7万円だから、住宅ローンも月7万円くらいなら同じだ」 と考える人は多いでしょう。 しかし、本当に比較するべきなのは、毎月の支払額だけではありません。 最後にその家がいくらで売れるのかです。 仮に月7万円を20年間払えば、 7万円×12か月×20年で、単純計算では1,680万円です。 しかし、その住宅に20年間住んだあと、高い金額で売ることができれば、最終的に戻ってくるお金があります。 その売却額を差し引いて考えれば、 「毎月7万円払っていたつもりだったけれど、結果的な実質住居費は月1万円程度だった」 ということも、条件によってはあり得ます。 もちろん現実には、住宅ローンの金利、固定資産税、管理費、修繕費、購入・売却時の諸費用などもあります。 それでも考え方として重要なのは、 表面上の毎月の支払額ではなく、最後にいくら残ったかまで含めて考えることだと思います。 逆に、同じ月7万円を払っていても、最後にほとんど値段が付かなければ、実質的な住居費は大きくなります。 だから、 「家賃がもったいないから家を買う」 という考え方をするのであれば、なおさら、 「その家を最後に誰が、いくらで買ってくれるのか」 まで考えるべきだと思います。 住宅ローンを払い終えたからといって、その家に購入時と同じ価値が残っているとは限りません。 ここでも重要なのは、 「いくら払ったか」ではなく、「最後にいくら残るか」です。 そして、家には車にはない、さらに大きな問題があります。 それは、 売れないからといって簡単に捨てることができない ということです。 車なら、値段を下げれば売れる可能性があります。 最悪の場合でも、買取業者や廃車という選択肢があります。 しかし家は、売れないからといって簡単に手放すことはできません。 所有している限り、固定資産税、草刈り、修繕、管理、場合によっては解体費までかかります。 建物が老朽化すれば、近隣への影響も考えなければなりません。 そして自分が亡くなれば、その問題が子どもや孫へ引き継がれる可能性もあります。 そう考えると、家は資産になるどころか、場所によっては 大きな「負の遺産」になる可能性がある商品 でもあります。 これが、これからの日本では特に大きな問題になると思っています。 人口が増え、若い世代が多く、住宅需要が拡大していた時代と、これからの日本では、家を購入するリスクそのものが違います。 これからは高齢者が増える一方で、住宅を新たに買う若い世代は減っていきます。 つまり、 「売りたい家」は増えるのに、「買いたい人」は減っていく。 この構造を考えずに、 「家を買えば最後には資産になる」 と考えるのは、これからの日本ではかなり慎重になった方がいいのではないでしょうか。 特に、これから何千万円という住宅を購入する人は、これまでの日本とはまったく違う時代に家を買うことになります。 私は今、住宅を見る時に、広さや新しさだけではなく、 「自分が住み終わったあと、次に誰が欲しがるのか」 を考えるようになりました。 高い家が損なのではありません。 安い家が得なのでもありません。 広い家が得なのでもありません。 注文住宅で個性を出せば価値が上がるとも限りません。 そして、月々の住宅ローンが家賃と同じだから得とも限りません。 重要なのは、 最後まで価値が残る場所を買えるかどうか。 多くの人が使いやすい家なのか。 自分が売りたいと思った時に、実際に買いたい人がいるのか。 そして、 最後にいくら残るのか。 そこまで考えて初めて、本当の意味での住宅の価値が見えてくるのではないでしょうか。 家だから資産なのではありません。 誰かが欲しいと思うものだから、資産になる。 私は投資を始めてから、そのことに気づきました。 これからの人口減少社会では、 「どんな家を建てるか」 だけではなく、 「どこに建てるか」 「次の人も欲しいと思う家か」 「最後に売れる家なのか」 そこまで考えて家を選ぶことが、これまで以上に重要になっていくのではないでしょうか。 協同組合かけはし/KAKEHASHI HUMAN MONGOL LLC  後藤友亮/GOTO YUSUKE 静岡県浜松市/モンゴル・ウランバートル     公式サイト:https://www.kakehasi.biz/

  • ただのSEO実験だった――900記事目前、ついに仕事の問い合わせが始まった

    すべての始まりは、かなり単純でした。 このホームページは、もともと仕事のために始めたものではありません。 今はSEO実験として900記事目前まで来ました。 仕事を引退し、以前より自由な時間が増えた私は、ChatGPTにこんなことを尋ねました。 「時間のある自分は、これから何をすればいい?」 せっかく時間があるのだから、何か面白いことをやってみたい。 そんなところから始まりました。 そして、その一つとして始めたのがホームページでした。 自分がこれまで経験してきたこと。 海外で実際に見たこと。 車や太陽光、不動産、AIについて調べたこと。 日々の生活の中で感じたこと。 そういったものをAIと一緒に記事にしていったら、一体どうなるのだろう。 最初から仕事にするつもりはありませんでした。 むしろ、 「AIを使って大量の記事を書いたら、Googleはどう評価するのだろう?」 という実験に近いものでした。 記事を書き始めると、今度はGoogleでの表示回数やクリック数、アクセス数を見るのが面白くなってきました。 「この記事は検索される」 「こちらはほとんど読まれない」 「公開した直後は動かなかったのに、しばらくして検索され始めた」 記事によって結果がまったく違います。 それを見ながら記事を書き続けているうちに、いつの間にか1000記事という目標までできました。 そして今、その目標もかなり現実的なところまで来ています。 記事数は900本目前。 最初から、目標は1000記事でした。 なぜ1000記事だったのか。 当時、AIに相談したところ、SEOの実験としては1000記事あたりが一つの良いラインだと言われたからです。 そこで私は、最初から「1000記事までは書く」と決めました。 ところが面白いことに、今のAIに同じような相談をすると、 「もう1000記事まで増やすことにこだわらなくてもいい」 と言いだしました。 理由ははっきり分かりませんが、最近は特定の記事へのアクセスが増えてきたため、これからは記事数を増やすよりも、読まれている記事をさらに強化した方が効率的だという判断なのかもしれません。 確かに、それは理屈としてはよく分かります。 ただ、私には一つだけ変えられない考えがあります。 一度「やる」と決めたことは、最後までやる。 私は昔から、途中でやめると運が悪くなるような感覚があります。 そして自分の過去を振り返ると、なぜかそれを裏付けるような出来事も何度かありました。 だから今のAIに、 「もう1000記事まで書かなくてもいい」 と言われても、私の中では答えは決まっています。 1000記事まではやります。 ただ一つ書き、また一つ書き、Googleでの表示回数やアクセス数の変化を見るのが面白くなって、今は900記事目前まで来ました。 そして最近、さらに予想していなかったことが起き始めました。 記事を読んだ方から、仕事としての問い合わせが出始めたのです。 一つだけではありません。 内容はそれぞれ違いますが、 「相談したい」 「調べてもらえないか」 「こういうことはできますか」 といった話が少しずつ出てくるようになりました。 もちろん、相談内容にはプライバシーがあります。 本人に迷惑がかかる可能性もあるため、ここでは具体的な内容や個人が特定できる情報については書きません。 もし今後、実例を記事として紹介することがあれば、必ず本人の許可を取ったうえで行いたいと思っています。 ただ、問い合わせが一つではなく複数出てきたことで、私は少し考えるようになりました。 もしかすると、これはAI時代に生まれる新しい仕事の形なのではないか。 これまでなら、 「専門家に頼むほどではない」 「誰に聞けばいいか分からない」 「インターネットで調べても情報が多すぎて分からない」 そんな問題はたくさんありました。 今は、そこにAIがあります。 相談する人の話を聞く。 何が問題なのかを整理する。 必要な情報をAIと一緒に調べる。 複数の情報を比較する。 そして、考えられる選択肢を分かりやすく整理する。 つまり、 AIに仕事を丸投げするのではなく、人間とAIが一緒になって問題を整理していく。 そんな仕事です。 私はこれまで会社経営をはじめ、海外、不動産、太陽光、車、投資など、いろいろなことを実際に経験してきました。 もちろん、それぞれの分野の専門家ではありません。 法律、税務、医療など、資格や専門知識が必要なことは本当の専門家に相談する必要があります。 しかし、その一歩手前。 「そもそも何を調べればいいのか分からない」 という段階なら、AIを使いながら一緒に整理することができるかもしれません。 以前、パソコンの修理やメモリ交換をAIと一緒に行ったときにも、 「これはAI教室のようなものになるかもしれない」 と感じたことがありました。 今回の問い合わせは、そこからさらに一歩進んだものなのかもしれません。 AIの使い方を教えるだけではなく、AIを使って一緒に問題を解決する。 これからは、そんな仕事も増えてくるのかもしれません。 そして私自身、このホームページの実験がますます楽しくなってきました。 最初はChatGPTへの、 「時間のある自分は何をすればいい?」 という一言でした。 そこから記事を書き始め、 記事を書く ↓Googleに表示される ↓表示回数が増える ↓検索からアクセスが来る ↓記事を読んでもらう ↓実際の相談や問い合わせが生まれる というところまで来ました。 最初はパソコンの画面に表示される数字を見て楽しんでいただけでした。 しかし今では、その数字の向こう側に実際の人がいることを感じるようになりました。 Googleの表示回数はこれからどうなるのか。 アクセス数はどこまで増えるのか。 1000記事を書いたら何が起きるのか。 どんな記事が何年も検索され続けるのか。 そして、その記事から今度は何が生まれるのか。 正直、私自身にも分かりません。 でも、最初から答えが分かっていたら、実験にはなりません。 何が起こるか分からないから面白い。 仕事をするために始めたホームページではありませんでした。 SEO会社を作ろうと思ったわけでもありません。 実際にGoogleでの表示回数も、少しずつ変化してきました。 7月頃はほとんど表示されない日も多かったのですが、8月、9月と進むにつれて明らかに表示される回数が増えています。 一日だけ突然伸びたのではなく、上下を繰り返しながら全体の水準が上がっているのが分かります。 そして今、記事数は900本目前。 Googleの表示回数、アクセス数、そして実際の仕事の問い合わせ。 画面の中の数字だけだったSEO実験が、少しずつ現実につながり始めました。 ただ、 「時間のある自分は何をすればいい?」 とAIに聞いただけです。 その小さな質問から始まった実験が、今、少しずつ現実の世界につながり始めています。 ますます、この先を見るのが楽しみになってきました。 協同組合かけはし/KAKEHASHI HUMAN MONGOL LLC  後藤友亮/GOTO YUSUKE 静岡県浜松市/モンゴル・ウランバートル     公式サイト:https://www.kakehasi.biz/

  • 50代の通院率は約4割――住宅ローンを組む前に考えたい30年後の暮らし

    50代の通院率と住宅ローンを重ねて考える 50代の通院率と住宅ローンを重ねて考えると、家を買うときには「今」だけでなく、30年後の暮らしまで考える必要があると感じます。 50代の通院率を調べてみると、約4割の人が何らかの理由で通院していることが分かります。 一方、40歳前後で住宅ローンを組めば、返済は50代、60代、場合によっては70代まで続きます。 人口減少が進む日本で、これからどんなことが問題になっていくのか。 そんなことを調べている中で、私はある数字を見つけました。 それが、年代別の「通院者率」です。 正直、この数字を見たとき、 「えっ」 と思いました。 50代になると、通院している人が一気に増える 厚生労働省の国民生活基礎調査を見ると、年代が上がるにつれて通院している人の割合は大きく上昇します。 年齢 通院している割合 40~49歳 28.0% 50~59歳 41.9% 60~69歳 59.0% 70~79歳 70.8% 80歳以上 72.8% 65歳以上 69.6% おおよそ、 40代 約28%   50代 約42%     60代 約59%    70代 約71% です。 つまり50代になると、10人に4人以上。 60代では10人に6人近く。 70代では10人に7人ほどが、何らかの傷病で通院していることになります。 特に私が驚いたのは、 40代から50代にかけて大きく上昇していることです。 もちろん、50歳になった瞬間に体が悪くなるわけではありません。 しかし長年の生活習慣や体への負担などが、50代前後から表面に出てくる人が増えることは、この数字からも考えさせられます。 実は20年ほど前から同じ傾向だった さらに過去の統計も調べてみました。 すると、これは最近突然起きたことではありませんでした。 2010年の厚生労働省調査でも、通院者率は、 40代 約27%50代 約41%60代 約57%70代 約71% でした。 つまり、 「50歳を超えると通院する人が大きく増える」 という傾向は、以前からかなりはっきり存在していたのです。 ここで私は、これは単なる健康問題ではないと思いました。 住宅ローンは50代以降も続く 住宅ローンと、この数字を重ねてみる そして、家を買う年齢を考えてみます。 仮に40歳で家を購入し、30年の住宅ローンを組めば、完済するのは70歳です。 35年ローンなら75歳です。 つまり住宅ローンを返している期間は、 40代↓ 50代↓ 60代↓ 70代 と、まさに通院率が大きく上昇していく年代と重なります。 家を買う40歳頃には元気です。 車にも普通に乗れる。 病院が少し遠くても、それほど困らない。 スーパーまで数キロあっても、車で行けば問題ありません。 だから郊外の広い土地や、少し不便でも静かな場所に魅力を感じることもあると思います。 しかし、その家に住むのは今だけではありません。 住宅ローンは、その後30年近く続きます。 70歳になった自分を想像して家を選べるか 40歳で家を買った人が70歳になったとします。 通院する可能性は、40歳の頃とは大きく違います。 そのとき、 病院まで車で30分。 スーパーまでも車。 駅までも遠い。 バスは1時間に1本、あるいは廃止されている。 そんな環境だったらどうでしょう。 若いうちは何の問題もなかった家が、年を取った途端に暮らしにくい家になる可能性があります。 だから私は、家を買うときに考えるべきなのは、 「今ここで暮らしたいか」だけではない と思うようになりました。 大切なのは、 「70歳になった自分が、ここで暮らせるか」 という視点です。 さらに問題なのは、これから人口が減ること そして日本では、これから人口減少が進みます。 人口が減れば、地方ほど生活インフラを維持することが難しくなります。 スーパー。 病院や診療所。 銀行。 バス路線。 ガソリンスタンド。 さまざまなサービスが、今と同じ場所に30年後も残っているとは限りません。 ここが非常に重要だと思います。 人間は年を取るほど、医療や交通を必要とする可能性が高くなる。 ところが人口減少によって、それを支える地域のサービスは逆に減っていく可能性がある。 必要になるものが増える時期に、住んでいる地域から必要なものが減っていく。 これが、これからの日本で起きる大きな問題の一つではないでしょうか。 私の知り合いは、約10年前に浜松市内の大きな家を手放し、駅に近いマンションへ移りました。 当時は比較的すぐに家が売れたそうです。 今では足にしびれがあり、「あのとき移っておいて本当に良かった」と話しています。 ただ、これから同じことをしようとしても、10年前と同じように簡単に売れるとは限らないのではないか、と私は感じています。 日本では人口が減る一方、空き家は増え続けています。 だからこれからは、「年を取って不便になったら、そのとき家を売って便利な場所へ移ればいい」という考え方にも、少し注意が必要だと思います。 その頃になって、自宅が希望する価格で売れる保証はありません。 だからこそ、家を買う時点から「30年後もここに住めるか」「30年後、この家を売りたいと思ったときに買う人がいるか」まで考えることが、人口減少社会ではますます重要になるのではないでしょうか。 私たち夫婦は現在、通院していない ちなみに私自身は現在、定期的な通院をしていません。 妻も通院していません。 私には27歳のとき、約8メートルの高さから落ちて腰を強く打ったことで残っている持病があります。 ただ、現在は病院に通うほどではありません。 それ以外についても、現在特に通院を必要とする持病はありません。 むしろ振り返ってみると、若い頃のほうが体の不調はいくつかありました。 私の場合、大きく変わったと感じているのは、断食を行うようになってからです。 もちろん、 「断食をすれば病気にならない」 「断食をすれば通院しなくていい」 という話ではありません。 これは、あくまで私自身の経験です。 ただ今回、50代以降の通院者率を知ったことで、 「自分が今、病院に通わず生活できていることは、当たり前ではないのかもしれない」 と改めて感じました。 若い人にこそ、この数字を知ってほしい 今回この数字を見て、一番伝えたいと思ったのは若い人です。 20代、30代、40代では、老後はまだ遠い未来に感じます。 でも、40歳で30年ローンを組めば、返済が終わる頃には70歳です。 住宅ローンの30年間は、 自分の体が変わっていく30年間でもあり、 街が変わっていく30年間でもあります。 だから家を買うときには、 家の広さや価格だけではなく、 駅まで歩けるか。 病院に通いやすいか。 買い物に困らないか。 車に乗れなくなっても生活できるか。 そして、その地域に30年後も人が住み続けているのか。 ここまで考えてもいいのではないでしょうか。 40歳で買う家は、70歳の生活まで決める これまでの家選びでは、 「土地が安い」 「家が広い」 「静かで環境がいい」 といった条件が重視されてきました。 もちろん、それも大切です。 しかし人口減少時代には、もう一つ条件を加える必要があると思います。 「年を取っても、その場所で生活を続けられるか」 という条件です。 40歳の自分には便利な家でも、 70歳の自分には不便な家になるかもしれません。 そして住宅ローンが終わる頃になってから、それに気づいても簡単には動けません。 だからこそ、 40歳で家を買うなら、70歳の自分を一度想像してみる。 私自身、これまでの人生を振り返ってみても、住宅ローンは人生の中で最も大きな「足かせ」の一つだったと感じています。 毎月決まった金額を何十年も払い続けなければならない。それは、仕事を変えるとき、住む場所を変えるとき、何か新しいことに挑戦するときにも、知らず知らずのうちに選択肢を狭めます。 もちろん、家を持つことそのものを否定しているわけではありません。 自分の家を持つ安心感や、家族と暮らす場所をつくる価値もあります。 ただ、これからの日本は人口が減っていきます。30年後も、その地域の人口、病院、スーパー、公共交通、そして不動産価値が今と同じとは限りません。 さらに50代以降になると、通院する人の割合は一気に高くなります。 だから私は、これから住宅ローンを組む若い人には、今まで以上に慎重に考えることを勧めたいと思います。 「今、この家を買えるか」ではなく、「30年後も、この場所で暮らし続けられるか」まで考えて家を選ぶ。 人口減少社会では、その視点がこれまで以上に大切になるのではないでしょうか。 協同組合かけはし/KAKEHASHI HUMAN MONGOL LLC  後藤友亮/GOTO YUSUKE 静岡県浜松市/モンゴル・ウランバートル     公式サイト:https://www.kakehasi.biz/

  • 1997年式W140 S500のワイパー問題――W140 ワイパーブレード交換|BOSCH AJ60が装着できた

    W140 ワイパーブレードにBOSCH AJ60を装着 1997年式メルセデス・ベンツ W140 S500のワイパーゴムを交換しようとしたところ、適合する替えゴムがなかなか見つかりませんでした。 以前、AliExpressで購入したワイパーブレードに1度交換しましたが、実物は思っていた以上に作りが簡素で、W140に長く使うには少し不安を感じました。 そこで次は、もともと付いていたブレードを生かし、ゴムだけを交換することにしました。 ところが、W140のブレードに適合する専用ゴムは、探した範囲ではすべて売り切れでした。 仕方なく、市販の汎用ワイパーゴムを元の長さに合わせて切り、取り付けてみました。 しかし、断面形状や固定方法が完全には一致せず、満足できる仕上がりにはなりませんでした。 今回は、「ワイパーブレードの長さが多少違っても、アームとの取り付け部分が同じ形状なら装着できるのではないか」とひらめきました。 そこで、長さだけでなく、ブレードの取り付け部分の形状に注目して探してみることにしました。 W140のワイパーブレードは一般的なものとは少し異なり、取り付け部分がブレードの中央ではありません。 実際に測ってみると、取り付け部分の中心から左端まで約30cm、右端まで約40cm。全長は約70cmですが、左右非対称の特殊な形状です。 そのため、単純に「700mmのブレードなら取り付けられる」というわけではありません。 ブレード全体の長さだけでなく、取り付け部分から左右の端までの寸法や、アダプターの形状まで確認する必要があります。 W140に装着実績のあるブレードを発見 ネットで調べていると、同じようにW140のワイパーで困っていた方の記事を見つけました。そこには実際に取り付けたブレードの品番まで記載されていました。 その商品が、BOSCHのエアロツイン J-フィット「AJ60」です。 メーカー:BOSCH シリーズ:エアロツイン J-フィット 品番:AJ60 長さ:600mm まず1本だけ注文して、運転席側へ取り付けてみました。結果は、アダプターも問題なく合い、きちんと装着できました。 BOSCH(ボッシュ) ワイパーブレードエアロツイン J-フィット AJ60 純正の約700mmに対してAJ60は600mmなので、払拭範囲は多少狭くなります。しかし、適合が不明な製品を何本も試すより、実際に装着できることが確認できた同じ製品を使うほうが安心です。 AJ60はあくまで一時的な対応 今回はAJ60でひとまず使用できる状態になりましたが、これは仮の処置と考えています。 W140の既存ブレードは、取り付け位置や長さが専用に設計された貴重なものです。 古いからといってブレードごと処分せず、純正形状のブレード本体は残しておくことにしました。 適合するBOSCHの専用ゴム、または同じ断面形状を持つ替えゴムが再び入手できれば、純正ブレードを復活させられます。 焦らず純正形状のゴムを探せるようになった ワイパーは安全に直結する部品なので、適合品が見つかるまで装着できない状態で待つわけにはいきません。 今回、装着実績のあるBOSCH AJ60が使えることを確認できたため、当面の雨天走行には対応できます。これで急いで不確かなゴムを購入する必要がなくなり、純正ブレードに合う替えゴムをゆっくり探せるようになりました。 W140のワイパーで同じように困っている方には、純正ブレードを処分せず保管したうえで、BOSCH AJ60を一時的な代替品として検討する方法もあると思います。 以前、AliExpressで購入したワイパーブレード↓ 送料込みで、2000円くらいでした。 箱の写真と中身は違いましたが長さも含めてしっかりつきました。 協同組合かけはし/KAKEHASHI HUMAN MONGOL LLC  後藤友亮/GOTO YUSUKE 静岡県浜松市/モンゴル・ウランバートル     公式サイト:https://www.kakehasi.biz/

  • 第5話|57歳になって分かったこと――人は一人では何もできなかった

    19歳から始まった経営者人生――全5話・第5話 経営者人生で分かったこと――人は一人では何もできない 19歳から続いた経営者人生で分かったことは、最後にはとてもシンプルなことでした。 人は一人では何もできない。 お金や会社、車や船を手に入れることよりも、最後に残ったのは、自分を支えてくれた人たちとのつながりでした。 今振り返ると、私は若いころから本当に周囲の人に恵まれていました。 家族。 スタッフ。 仕事仲間。 取引先。 友人。 そして両親。 若いころの私は、 「自分の力でここまで来た」 と、どこかで思っていたのかもしれません。 しかし実際には違いました。 うつ病で動けないとき、会社を守ってくれた人がいた。 そんな私を支えてくれた人がいた。 19歳から続いた経営者人生で分かったことは、最後にはとてもシンプルなことでした。 人は一人では何もできない。 そして、もっと昔から何も言わず無償で支えてくれていた両親がいました。 今は、どれだけ返せるか 今の私は、 これまで支えてくれた人たちに、どれだけ返せるか を考えるようになりました。 中でも大きいのは両親です。 以前、長年私の会社で働いてくれたスタッフから、 「社長のご両親は本当に素晴らしい人だった。特にお母さんは」 と言われたことがあります。 今になって、その意味がよく分かります。 父はもう亡くなってしまいました。 それでも最後の時期には、自分なりに十分な親孝行ができたと思っています。 母の「ありがとう」 今、母に何かをすると、そのたびに、 「ありがとう」 と言ってくれます。 本当に何気ない一言です。 しかし今の私には、その言葉がとても大きく感じられます。 「ありがとう」 と言われると、 また何かしてあげたい。 もっと頑張ろう。 そう思えるのです。 父は照れ屋だったのか、昔はあまり「ありがとう」と言う人ではありませんでした。 しかし亡くなる少し前には、父からも「ありがとう」という言葉を聞くようになりました。 そのことも覚えています。 親の介護が、一番の喜びなのかもしれない 若いころの喜びは、 スーパーカー。 クルーザー。 自分の家。 会社を大きくすること。 でした。 しかし今は違います。 長い間、見返りを求めることなく支えてくれた親に、 今度はこちらが返す番だ と思っています。 母の世話をする。 必要なことをしてあげる。 できるだけ一緒に過ごす。 そして「ありがとう」と言ってもらえる。 今では、 親の介護ができることそのものが、一番の喜びなのかもしれない と思うようになりました。 祖父の話を、今になって思い出す 私の祖父も、生前は浜松ではそれなりに大きな鍛冶屋の事業をしていました。 オイルショックのころ、鉄が手に入りにくくなったことがあったそうです。 ところが、それまで祖父が良い付き合いをしていた鋼材屋さんは、そんな時でも祖父には通常どおり鉄を出してくれた。 そのおかげで、仕事を続けることができたそうです。 昔は単なる商売の話として聞いていました。 しかし今は、その意味がよく分かります。 お金だけではない。 契約だけでもない。 本当に困ったときに助けてくれるのは、 それまで築いてきた人と人との関係 なのかもしれません。 「お互いさま」 「恩を忘れない」 「困ったときには助け合う」 どこか日本昔話に出てくるような、昔から日本人が大切にしてきた価値観なのかもしれません。 19歳の自分に言うなら もし今、19歳の自分に会えるなら、 「もっと慎重に生きろ」 とは言わないと思います。 おそらく、 「そのまま行け」 と言います(笑)。 失敗してもいい。 人が嫌がる仕事でもやればいい。 常識がなくてもいい。 夢があるなら、とことん追えばいい。 ただ、一つだけ言うなら、 「自分を支えてくれている人を、当たり前だと思うな」 と伝えたいです。 19歳から始まった経営者人生で、私はいろいろなものを手に入れました。 お金。 自由。 会社。 車。 船。 家。 そして、たくさんの経験。 しかし今になって分かった一番大きなことは、そんなことではありませんでした。 人は一人では何もできない。 支えてくれた人への感謝。 受けた恩を忘れないこと。 そして今度は、自分が誰かに返していくこと。 若いころの夢は、 自分が何かを手に入れることでした。 今の夢は、 自分を支えてくれた人たちに、残りの人生でどれだけ返していけるか。 それが、今の私にとっての新しい目標なのだと思います。 協同組合かけはし/KAKEHASHI HUMAN MONGOL LLC  後藤友亮/GOTO YUSUKE 静岡県浜松市/モンゴル・ウランバートル     公式サイト:https://www.kakehasi.biz/

  • 第4話|もう一度やってみよう――うつ病からの再出発と、二度目の経営

    19歳から始まった経営者人生――全5話・第4話 40歳くらいのころだったと思います。 うつ病であることも含め、当時の私を承知したうえで支えてくれる人が現れました。 その人の存在が、その後の人生の大きな転機になったことは間違いありません。 少しずつ、 「もう一度やってみよう」 と思えるようになりました。 うつ病からの再出発――もう一度経営を始めた 二度目は「スタッフのため」が加わった 私にとって、この時期が本当の意味での「うつ病からの再出発」だったのだと思います。 若いころの経営は、 自分の夢のため という気持ちが中心でした。 しかし再出発してからは、 「スタッフのためにも会社を良くしたい」 という気持ちが加わりました。 自分が動けないときに会社を守ってくれた人たちがいた。 そのことを意識するようになったからです。 ただ、そこで別の現実にも気づきました。 以前の私は、 会社と社員がお互いを利用して稼ぎ、それぞれの夢を実現する という、ある意味では割り切った経営でした。 ところが再出発後は、そこに情が入りました。 すると、以前より社員から言いたいことを言われる場面も増えたように感じました。 情を入れれば、必ず経営が良くなるわけではない。 そんなことも経験しました。 それでも、再出発した事業は再び大きくなっていきました。 55歳で引退するつもりだった 実は再出発したころから、周囲には言っていませんでしたが、 55歳を一つの引退時期 として考えていました。 その後、時代も大きく変わりました。 コロナ禍。 働き方改革。 人手不足。 働く側の価値観の変化。 そして、自分自身の価値観の変化。 私は創業当初から、 会社を使って稼ぎ、それぞれが自分の夢を実現すればいい というスタイルでした。 しかし、それが時代に合わなくなってきたと感じました。 そして私自身も、 生活できる分だけ一人で稼げばいい。 今まで仕事のために我慢してきたことを、これからやってみたい。 そう思うようになりました。 それでも、まだ見えていなかったものがあった 二度目の経営では、スタッフのことを考えられるようになりました。 しかし今振り返ると、 家族や、それ以外の周囲の人たちの気持ちまでは、まだ見えていなかった と思います。 自分。 会社。 スタッフ。 そこまでは見えるようになった。 しかし、そのさらに外側で自分を支えてくれていた人たちには、まだ十分に気づいていませんでした。 そして、若いころの夢はすべて叶った 二度目の経営を始めてから、事業は再び大きくなっていきました。 振り返ってみると、若いころに「いつか欲しい」と思っていたものは、この頃までにほとんどすべて手に入れることができました。 最初は小さなプレジャーボートだったものが、やがて大型クルーザーになりました。 車も同じです。 ランボルギーニ。 フェラーリ。 ポルシェ。 LB GT-R。 そのほかにも、若いころの自分なら憧れて眺めていたような車を、実際に所有することができました。 19歳のころ、 「いつかこんな生活ができたらいい」 と思い描いていた世界は、気がつけばほとんど現実になっていました。 夢は叶った。でも、そこで終わりではなかった もちろん、手に入れた時はうれしかったです。 初めて欲しかった車を買った時。 初めて船を持った時。 さらに大きな船へ乗り換えた時。 一つ一つ、若いころの自分から見れば大きな成功だったと思います。 二度目の夢と目標も、すべて叶った うつ病から再出発し、二度目の経営を始めてからも、私にはもう一度、夢と目標ができました。 事業は再び大きくなっていきました。 そして、若いころから欲しかったものも、最終的にはほとんどすべて手に入れることができました。 ランボルギーニ。フェラーリ。ポルシェ。GT-R。 船も、最初は小さなプレジャーボートだったものが、小型クルーザー 最終的には大型クルーザーになりました。 家もあり、会社もあり、仕事も順調でした。 しかし、私にとってもっと大きかったのは、物を手に入れたことだけではありません。 二度目の経営で自分が決めていた夢と目標そのものを達成できたことです。 それが、実際に引退する4年ほど前だったと思います。 目標を達成したら、突然気が抜けた 夢や目標を達成した瞬間は、もちろんうれしかったです。 ところが、その後、自分でも予想していなかったことが起きました。 一気に気が抜けてしまったのです。 それまで自分を前へ進ませていたものが、突然なくなってしまったような感覚でした。 これも、引退を決めた理由だった。 目標を失ってからは、 「会社をもっと大きくして、それで自分は何をしたいのだろう」 と考えるようになりました。 売上をさらに増やす。 会社をさらに大きくする。 もっとお金を稼ぐ。 もちろん、やろうと思えばまだ続けることはできたと思います。 でも、それを何のためにやるのか。 自分の中で、その答えが以前ほど見つからなくなりました。 そこで初めて、 「もう十分なのかもしれない」 と思うようになりました。 「何を手に入れるか」から「残りの時間をどう使うか」へ 19歳から、ずっと何かを追いかけてきました。 若いころは、スーパーカーや家や船。 その後は会社や仕事の目標。 そして二度目の経営でも、新しい夢と目標を追いかけました。 それらを一つずつ実現していった結果、最後に残ったのは、 「これからの人生で、何を手に入れるか」 ではなく、 「残された時間を、どう使いたいのか」 という問いでした。 考えてみれば、これが私の引退の始まりだったのかもしれません。 そして経営から離れ、57歳になった今、ようやく分かってきたことがあります。 私がここまで来られたのは、自分一人の力ではなかったということです。 55歳で引退しようと思った理由 実は再出発したころから、周囲には言っていませんでしたが、私は55歳を一つの引退時期として考えていました。 そして、その年齢が近づくころには、自分の中でもかなり答えが出ていました。 もう、何かを手に入れるためだけに会社を大きくする必要はない。 生活できるだけのお金があればいい。 これまで仕事を優先して我慢してきたことを、今度はやってみたい。 「自分の時間を取り戻したい」 という気持ちの方が強くなっていきました。 若いころの私は、 何を手に入れるか を考えていました。 ところが、引退を考えるころには、 残された時間をどう使うか を考えるようになっていました。 そして実際に経営の第一線から離れてみて、私はさらに大きなことに気づくことになります。 。 協同組合かけはし/KAKEHASHI HUMAN MONGOL LLC  後藤友亮/GOTO YUSUKE 静岡県浜松市/モンゴル・ウランバートル     公式サイト:https://www.kakehasi.biz/

  • 第2話|若い経営者の成功体験――夢は思ったより早く叶った

    19歳から始まった経営者人生――全5話・第2話 25歳くらいになるころには、仕事も会社も少しずつ大きくなっていました。 そしてこのころ、子供のころからの夢だった高級車にも乗れるようになりました。 W140 AMGが、意外な形で私を助けてくれた 私は27歳くらいでW140のAMGに乗ることができました。 当時は中古でも数千万円するような車でした。 今振り返ると、この車は若く童顔だった私を意外な形で助けてくれました。 当時は今以上に、 「乗っている車で人を見る」 という時代だったと思います。 良いか悪いかは別として、高級車に乗っていることで相手の反応が変わることがありました。 そして、 「自分も後藤さんのようになりたい」 「もっと稼ぎたい」 という若い人たちも集まるようになりました。 25歳ごろからは、周囲が「やりたい」と言う仕事を一緒にやった このころから、仕事の作り方も変わっていきました。 スタッフや周囲の若い人から、 「これを一緒にやりたい」 と言われる。 すると私は、 「じゃあ、やってみよう」 という感じでした。 職種は選びませんでした。 自分が専門家だから始めるのではありません。 誰かがやりたいと言う。 可能性がありそうならやってみる。 分からなければ調べる。 独学で覚える。 駄目なら別の方法を考える。 そんな流れだったので、結果として本当に多くの仕事を経験することになりました。 結果が出るまでは我慢する。出たら大きく返す スタッフとの関係も、一般的な会社とは少し違っていたと思います。 新しい仕事を始めたばかりでは、売り上げは安定しません。 そのため多くのスタッフも、売り上げが安定するまでは金銭的な要求を後回しにしてくれていました。 その代わり私は、 結果が出たら、払えるだけ払う という考えでした。 当時、大卒の初任給が18万円程度だったころに、結果を出したスタッフへ一人あたり月100万~150万円以上払ったこともあります。 ただし、 結果が出なければ払わない。結果が出れば大きく返す。 そこには、はっきりしたメリハリがありました。 今振り返ると、 会社と社員がお互いを使って稼ぎ、それぞれが自分の夢を実現する という感覚に近かったと思います。 30歳ごろには、子供のころの夢がほぼ叶った 30歳になるころまでには、 スーパーカー。クルーザー。自分の家。 という子供のころの夢を、ほぼ実現することができました。 しかし面白いもので、一つ叶うと次が欲しくなります。 スーパーカーなら、 ランボルギーニ。 フェラーリ。 ポルシェ。 クルーザーなら、次はもっと大きなもの。 夢は、叶った瞬間に次の夢へ変わっていきました。 しかし一方で、実際に手に入れてしまうと、スーパーカーもクルーザーもそれほど使いませんでした。 欲しいものを手に入れることと、 それを持ったあとに幸せが続くことは別なのだ ということも、後になって分かりました。 振り返ってみると、これは私にとって最初の若い経営者の成功体験だったのかもしれません。 協同組合かけはし/KAKEHASHI HUMAN MONGOL LLC  後藤友亮/GOTO YUSUKE 静岡県浜松市/モンゴル・ウランバートル     公式サイト:https://www.kakehasi.biz/

  • 第1話|19歳で経営者になった――下積みがなかったからこそ、何でもできた

    19歳から始まった経営者人生――全5話・第1話 19歳で経営者になり、仕事、成功、挫折、うつ病、再出発、そして引退まで。 57歳になった今、振り返って初めて分かったことがあります。 この全5話では、私自身の経営者人生を時系列で振り返ります。 私は19歳で経営者になったことで、それまでとはまったく違う人生を歩き始めました。 自分の事業を始めたのは19歳の時です。。 今振り返ると、かなり早かったと思います。 19歳で経営者になった私に下積みはなかった 一般的には、会社に入り、何年か経験を積み、仕事を覚え、人脈をつくり、それから独立する。 おそらく、それが普通なのでしょう。 しかし私は、ほとんど下積みらしい下積みをしないまま、経営する側に回りました。 そして今になって思うのは、 その「下積みがなかったこと」こそ、私にとっては良かったのではないか ということです。 学歴も経験もなかったから、仕事を選ぶ必要がなかった 私は高い学歴があったわけでもありません。 一つの仕事を何年も経験し、その道の専門家になってから独立したわけでもありません。 普通なら、それは弱点に見えるかもしれません。 ところが私の場合は逆でした。 仕事に対して、邪魔をするプライドがなかったのです。 「こんな仕事は自分のする仕事ではない」 「こんな汚い仕事は嫌だ」 「こんな仕事をしたら格好悪い」 そんなことを考えた記憶が、ほとんどありません。 仕事があればやる。 汚い仕事でもやる。 人が嫌がる仕事でもやる。 必要とされるなら、とにかくやってみる。 好きな仕事を選ばなかったというより、 そもそも仕事を選ぶ必要がなかったのです。 私にとって大切だったのは、何の仕事をするかではなく、その仕事によって自分の夢に近づけるかどうかでした。 子供のころから、夢だけははっきりしていた 私には子供のころから、欲しいものがはっきりしていました。 スーパーカー。大型クルーザー。自分の家。 当時の私にとっては、まるでハリウッド映画の中の世界でした。 今考えれば、ずいぶん単純な夢です(笑)。 しかし当時は、それがすべてでした。 その夢を実現するためなら、どんな仕事でも面白かった。 仕事そのものが目的ではなく、夢に近づくための手段だったのです。 学歴も経験もなかったから、仕事を選ぶ必要がなかった 独立のきっかけは18歳のころにありました。 車の免許を取ったことをきっかけに、ある会社で得意先を回る仕事をしていました。 そこで、もともと一番弱かったメーカーの売り上げを短期間で大きく伸ばすことができました。 すると、それまで一番だった競争会社が危機感を持ったようです。 ある日、その会社から、 「うちに来てくれないか」 と声をかけられました。 いわゆるスカウトです。 普通なら転職の話だったのでしょう。 しかし私は、 「自分で事業を始めたい。社員としてではなく、請負ならあなたの会社の商品を売ってもいい」 と提案しました。 今考えると、18歳でよくそんなことを言ったものだと思います。 当時勤めていた会社にも、本当の退職理由を話しました。 すると、 「請負でやるなら、せめて20歳まで待ってほしい」 と言われました。 しかし私には、20歳まで待つという選択肢がありませんでした。 一日でも早く、人に使われる立場から離れたかった。 そこで競争会社からの誘いをチャンスだと思い、そちらへ移りました。 それが、19歳から始まる私の事業人生の出発点になりました。 人から教わることが苦手だった――高校も4校中退した 今振り返ると、私が19歳という若さで経営者になった背景には、もう一つ大きな理由があったと思います。 私は昔から、人から教えてもらって、その通りに覚えていくことが苦手な性格でした。 それは学校生活にも表れていたと思います。 実は私は、高校を4校中退しています。 今考えても、なかなかの回数です(笑)。 学校そのものが嫌いだったというより、決められた時間に、決められた場所で、みんなと同じ方法で教わるという仕組みに、どうしても自分を合わせることができませんでした。 だからといって、学ぶこと自体が嫌いだったわけではありません。 むしろ社会に出てからは、分からないことがあれば自分で調べ、実際にやってみることを繰り返してきました。 人から教わるのは苦手なのに、自分で必要だと思ったことなら、いくらでも調べられる。 今になって考えると、私はそういうタイプだったのだと思います。 「教わる」より「やって覚える」 仕事でも同じでした。 誰かの下について、 「まずこれを覚えなさい」「次はこれをやりなさい」 と言われるより、 とりあえず自分でやってみる。分からなければ調べる。失敗したら直す。できなければ、できる人を探す。 この方が圧倒的に自分には合っていました。 だから私にとって経営者という立場は、意外なくらい自然だったのかもしれません。 誰かが正解を教えてくれるわけではない。 自分で考え、自分で決め、結果も自分で受ける。 学校という環境にはなかなか馴染めなかった私が、社会に出て自分で事業を始めると、逆に動きやすくなった。 これは今振り返ってみると、とても面白いところです。 そして、下積みがなかったからこそ、 「この業界ではこうするものだ」 という固定観念もありませんでした。 知らないなら調べればいい。 やったことがないなら、やってみればいい。 その考え方が、その後さまざまな仕事に挑戦する土台になったのだと思います。 一番苦労したのは、若すぎたこと 若くして経営者になって一番大変だったのは、資金でも仕事でもありませんでした。 年齢が若すぎたことです。 しかも私は童顔でした(笑)。 19歳、20歳そこそこの人間が仕事の話をしている。 相手からすれば、 「こんな子供みたいな人に任せて大丈夫なのか」 と思うのも無理はありません。 仕入れ、道具、事務所。 さまざまな場面で信用が足りず、先払いを求められることもありました。 会社がある程度大きくなる27歳くらいまでは、この苦労が続いたと思います。 そのため私は、できるだけ表舞台に立つことを避けるようにもなりました。 自分を売り込むより、 仕事の結果を見てもらう方が楽だったのです。 次回:25歳ごろから仕事の作り方が変わっていった 協同組合かけはし/KAKEHASHI HUMAN MONGOL LLC  後藤友亮/GOTO YUSUKE 静岡県浜松市/モンゴル・ウランバートル     公式サイト:https://www.kakehasi.biz/

  • 第3話|35歳で突然「楽しい」が消えた――経営者だった私がうつ病になって分かったこと

    19歳から始まった経営者人生――全5話・第3話 35歳くらいのころ、私の人生に大きな変化が起きました。 経営者だった私がうつ病になり、それまで当たり前だった日常が大きく変わりました うつ病を経験することになったのです。 なぜそうなったのか、今でもはっきりした理由は分かりません。 そのころには複数の会社を経営していました。 しかし、それまでは仕事を苦に感じたことはありませんでした。 経営者とうつ病――35歳で突然「楽しい」が消えた 悲しい。でも、楽しくない 徐々に自分の中で変化が起きました。 悲しみや不安は感じる。 しかし、 「楽しい」という感情だけがなくなっていったのです。 昨日まで普通にできていた仕事が大変に感じる。 それまで何ともなかったことが、とても重く感じる。 夜になると、目の奥が砕けそうに痛くなることもありました。 テレビで悲しい出来事を見ると、涙が止まらない。 その反面、感動や楽しさは感じられない。 悲しみや不安は強く感じるのに、喜びや楽しさだけが消えてしまった。 私にとって、うつ病はそんな状態でした。 そんな時期に、社内で横領や分裂も起きました。 事業を減らした 病院へ行くと、 「今やっていることの負担を減らしなさい」 と言われました。 そこで、生活に必要な最低限のものだけを残し、事業を縮小しました。 それまで増やすことしか考えてこなかった私が、初めて減らす方向へ動きました。 それでも、残した会社はスタッフによって動き続けました。 42歳くらいまでは、私が前へ出なくても会社が回っていたと思います。 今になれば分かります。 私が動けなくても、支えてくれていた人がいた。 自殺を考えるところまでいった うつ病は、その後も悪化しました。 人と会うことさえつらくなりました。 好きな人や安心できる人以外には、できれば会いたくない。 そして最後には、自殺を考えるところまで追い込まれました。 だから私は、うつ病になった人が、 なぜ自殺まで考えるようになってしまうのか ということを、自分の経験として理解できます。 経験する前の私には分かりませんでした。 頑張れば何とかなる。 気持ちを強く持てばいい。 そんな問題ではありませんでした。 「両親を路頭に迷わせるわけにはいかない」 そんなとき、私の中に残っていたものがあります。 自分がいなくなれば、保証人になっている両親が困る。 だから生きなければならない。 そう思いました。 その後、電気けいれん療法(ECT)を受けました。 私の場合、この治療はよく効きました。 治療直後は不安が薄れ、 「生きよう」 という感覚が戻りました。 ただ、それは長く続きませんでした。 2週間ほどすると、また戻ってしまう。 その繰り返しでした。 日本を離れると、なぜか楽になった その後、私はあることに気づきました。 日本を離れて海外へ行くと、自分の場合は症状が軽く感じられたのです。 理由は今でも分かりません。 環境なのか。 人間関係なのか。 仕事から物理的に離れられるからなのか。 ただ、自分では明らかに違いを感じました。 そこで私は、 「とにかく日本から離れてみよう」 と考えました。 そして、それができたのも、私がいなくても会社を支えてくれたスタッフがいたからでした。 第3話はうつ病・自殺念慮を扱うので、公開時には冒頭か末尾に「これは私自身の体験であり、治療法を勧める記事ではありません」 協同組合かけはし/KAKEHASHI HUMAN MONGOL LLC  後藤友亮/GOTO YUSUKE 静岡県浜松市/モンゴル・ウランバートル     公式サイト:https://www.kakehasi.biz/

  • 余命3か月と告げられた父が家族のもとへ――それから4年半を生きた、今も答えの分からない体験

    余命3か月と告げられた父と家族の記録 私には、今でも答えの分からない出来事があります。 父ががんになった時のことです。 この話を書くことには少し迷いがあります。 なぜなら、結果だけを書けば、 「この治療でがんが治った」 という話に受け取られてしまう可能性があるからです。 しかし、私はそういうことを言いたいわけではありません。 何が効いたのか、なぜそうなったのか、今でも私には分かりません。 ただ、 余命3か月と告げられた父が、その後約4年半を生き、その間がんの再発を告げられることなく生活した。 これは、私たち家族が実際に経験した出来事です。 今回は何かの治療法を勧めるためではなく、私自身の人生の中で忘れることのできない出来事として残しておきたいと思います。 父のがん治療が始まった 父ががんになり、病院で治療を受けることになりました。 私は家族として、 「ほかにも何かできることはないだろうか」 と考えていました。 私自身、以前に狭心症と診断された時、断食をした期間を経て思いもよらない経過を経験したことがありました。 もちろん、それによって医学を否定するようになったわけではありません。 ただ、 「一般には効果が十分に確認されていない方法でも、標準治療を妨げないのであれば、試せるものはないのだろうか」 と考えるようにはなっていました。 その中の一つが、丸山ワクチンでした。 担当医にも相談した 私は当時、自分が調べたことについて担当医に相談しました。 しかし、その時は考え方が合いませんでした。 私の記憶では、担当医から、 「日本ではこれだけ安く治療を受けられることをありがたいと思ってほしい」 という趣旨のことを言われました。 さらに、別の方法を希望するのであれば、 「それなら、こちらは治療から手を引く」 というほどの返答だったと記憶しています。 父自身も、 「くだらないことを言わないでくれ」 という反応でした。 私は、 「これ以上言っても仕方がない」 と思い、その時はいったん諦めました。 もちろん、この経験をもって、その担当医や日本の医療そのものを批判するつもりはありません。 父が受けていた治療にも、その時点で医学的に判断された理由があったと思います。 医師は医師として最善だと考える治療を行い、私は家族として、 「ほかに何かできることはないのか」 と必死に探していた。 立場が違えば、考え方が違うこともあると思います。 状態は悪化し、抗がん剤治療へ その後も父は病院で治療を続けました。 しかし状態は次第に悪化し、抗がん剤治療を受けるところまで進みました。 そして、2回目の抗がん剤治療が終わった頃だったと思います。 担当医から、 「息子さんに来てもらいたい」 と連絡がありました。 病院へ行くと、そこで告げられた言葉を今でも覚えています。 「余命は3か月ほどです」 もうできる治療がない。 残された時間は自宅に戻り、家族と一緒に過ごした方がいい。 そういう説明でした。 父は「死ぬ準備」を始めた 父自身も、その言葉を受け入れていました。 家に戻ってからは、自分が亡くなった後に私たちが困らないように、いろいろなことを説明し始めました。 趣味で使っていた道具のこと。 どこに何があるのか。 自分がいなくなった後、家族が困らないための引き継ぎです。 父自身も、 「自分に残された時間はあとわずかだ」 と思っていたのだと思います。 私たち家族にとっても、本当に重い時間でした。 「最後だから、丸山ワクチンをやってみてもいい」 ところが、その時になって担当医から意外な話が出ました。 以前、私が相談していた丸山ワクチンについて、 「最後だから、以前息子さんが言っていた丸山ワクチンをやってみてもいい」 という趣旨のことを言われたのです。 「治るとは思わないけれど」という話だったと記憶しています。 私は正直、 「今になって?」 と思いました。 しかし、やってもよいというのであれば、やらない理由もありませんでした。 標準治療ではもうできることがないと言われた状況だったこともあり、私は当時自分が調べていたことについて、丸山ワクチンいがいにも、いっしょにあらゆることを試してみました。 ここは重要なのですが、一つの方法だけを試したわけではありません。 ですから、後から結果だけを見て、 「これが効いた」 と特定することはできません。 余命3か月と告げられ、訪問医療が始まった 父が自宅へ戻ることになり、訪問医療を受けることになりました。 この頃の父は、すでにがん治療で片方の肺を切除しており、肺は一つしかない状態でした。 さらに呼吸すること自体が苦しく、自宅でも酸素療法を受けながら生活する状態でした。 余命3か月と告げられていましたから、家族も父自身も、訪問医療は残された時間を自宅で過ごすためのものだと受け止めていました。 そして、この訪問医療の中で、担当の方が自宅まで来て、丸山ワクチンの接種も続けてくれることになりました。 ところが、そこから私たちの予想とは違う時間が始まりました。 3か月が過ぎても、父は生きていました。 それだけではありません。 自宅へ戻った当初は呼吸も苦しく、酸素療法を受けながら生活していましたが、その後は酸素を必要としなくなり、自宅に設置していた酸素療法の設備も返却しました。 そして定期診察のため病院へ行くことになった時には、父は母を助手席に乗せ、自分で車を運転して病院へ行きました。 余命3か月と告げられ、自宅で酸素療法を受けていた父が、3か月後には酸素の設備を返却し、自分で車を運転して病院へ行く。 家族にとっても、当初は想像していなかった変化でした。 そして、その日の検査でさらに驚くことになります。 そこで検査を受けました。 母から聞いた話では、結果を見た先生が、 「おかしいな、おかしいな」 というようなことを繰り返していたそうです。 がんが小さくなり始めていたというのです。 余命3か月と告げられていた私たち家族にとって、まったく予想していなかった展開でした。 さらに3か月後 そして、さらに約3か月が経ちました。 再び病院で検査を受けました。 その時、母が医師から聞いた言葉として私に伝えてくれたのが、 「あれ、がんが消えた?」母も笑ってしまったようです。 というほどの結果だったという話でした。 もちろん、私はその場で医師から直接その言葉を聞いたわけではありません。 また、当時の画像や診断書を今ここで確認しながら書いているわけでもありません。 そのため、医学的にどのような判定だったのかまで、現在の私には正確に説明できません。 ただ、家族として記憶しているのは、 余命3か月と告げられた時とは、まったく違う結果になったということです。 3か月のはずだった訪問医療が、4年半続いた 父はその後も生活を続けました。 訪問医療も続き、丸山ワクチンの接種も続けました。 半年が過ぎ、一年が過ぎ、それでも父は生活していました。 結果として、余命3か月と告げられた後から始めた丸山ワクチンの接種は、亡くなるまで約4年半にわたって続きました。 長く訪問してくださった担当の方からも、 「こんなに長く続けたのは初めてです」 という趣旨のことを言われたのを覚えています。 もともとは余命3か月と言われて始まった自宅での生活が、結果として4年半続いた。 家族にとっても、担当してくださった方にとっても、当初想定していた期間をはるかに超えるものになりました。 最後は、がんではなく肺炎だった 父は、余命3か月と告げられてから約4年半後に亡くなりました。 私の記憶では、その間、がんの再発を告げられることはありませんでした。 父は、抗がん剤治療を受ける以前の治療過程ですでに片方の肺を失っていました。 そして最後は風邪をひき、それをきっかけに肺炎となり、亡くなりました。 つまり、 余命3か月と告げられた後から丸山ワクチンの接種を始め、その後も約4年半にわたって継続したこと。 その間、がんの再発を告げられることなく生活し、最後は風邪をきっかけに肺炎となり亡くなったこと。 これが、私たち家族が実際に経験した経過です。 では、何が効いたのか ここがこの記事で一番大切なところです。 ここまで読めば、 「それなら丸山ワクチンが効いたのではないか」 と思う方もいるかもしれません。 私自身も、当然その可能性について考えました。 しかし私は、 「丸山ワクチンで父のがんが治った」 と断定することはできません。 父はそれ以前に、手術や抗がん剤などの治療を受けています。 それまで受けていた治療の効果が後から現れた可能性もあります。 病気そのものの経過だった可能性もあります。 さらに、その時期に私が調べて試したことは一つだけではありません。 だから、 「これが効いた」 と特定することは、私にはできません。 私が書けるのは、家族として経験した順番だけです。 がんの治療を受けていた ↓状態が悪化し、抗がん剤治療を受けた ↓余命3か月と告げられ、自宅へ戻った ↓訪問医療が始まり、丸山ワクチンの接種も始めた ↓当時、私が調べていたこともいくつか試した ↓約3か月後、がんが小さくなっていると聞いた ↓さらに約3か月後、がんが確認できないほどになったと母から聞いた ↓丸山ワクチンの接種はその後も約4年半続いた  その他、私が調べたたさまざまな方法も試しました ↓その間、がんの再発を告げられることなく生活した ↓最後は風邪をきっかけとした肺炎で亡くなった これが、私たち家族が経験したことです。 医療を否定したいわけではない 私はこの経験から、 「病院の治療は必要ない」 と思ったわけではありません。 父は病院でさまざまな治療を受けました。 私自身も狭心症の時には救急搬送され、病院で応急処置を受け、薬を処方してもらっています。 現在の医療によって助けられている人が大勢いることも当然だと思っています。 一方で、患者や家族は、 「ほかにできることはないだろうか」 と考えることがあります。 特に、 「もうできる治療がない」 と言われた時、その思いはさらに強くなります。 だから私がこの経験から感じたのは、医療を否定することではありません。 標準的な治療を大切にしながら、患者や家族が持っている疑問や希望についても、医師と話し合える関係があればいい。 今はそう思っています。 「分からない」という答えもあっていい 自分自身の断食の経験でも、父のがんの経験でも、私には医学的に説明できないことがあります。 だからといって、 「医学では説明できないから奇跡だ」 とも言いたくありません。 反対に、 「科学的に証明されていないから、自分たちが経験したことまで意味がない」 とも思いません。 分からないものは、分からない。 それでいいのではないかと思うようになりました。 科学的に効果が確認されていない方法を、標準治療の代わりに選ぶことには大きな危険があります。 だからこの記事も、丸山ワクチンや特定の代替療法を勧めるために書いたものではありません。 ただ、 余命3か月と告げられた父が、その後約4年半を生きたこと。 その4年半、丸山ワクチンの接種を続けたこと。 その間、がんの再発を告げられることなく生活したこと。 そして最後は、がんではなく、風邪をきっかけとした肺炎で亡くなったこと。 これは私たち家族に実際に起きたことです。 何が効いたのかは分からない。なぜそうなったのかも分からない。 だからこそ、何か一つの治療法の効果として結論づけるのではなく、 「私たち家族には、こういうことが実際にあった」 という人生の記録として残しておきたいと思います。 父が亡くなった今となっては、答えを知ることよりも、余命3か月と言われた後に与えられた4年半という時間そのものが、家族にとって一番大きなものだったのかもしれません。 協同組合かけはし/KAKEHASHI HUMAN MONGOL LLC  後藤友亮/GOTO YUSUKE 静岡県浜松市/モンゴル・ウランバートル     公式サイト:https://www.kakehasi.biz/

  • 断食を何度も経験して分かったこと――空腹・体重・睡眠、そして私の身体の変化

    前回の記事では、私が一日一食に近い生活をするようになった経緯と、狭心症と診断されたことをきっかけに経験した約20日間の断食について書きました。 それからは私は、何度か断食を経験するようになりました。 最初の20日間は自分でもかなり大胆なことをしたと思います。 しかし何度か経験するうちに、単に「食べない」ということだけではなく、食べない時に自分の身体がどう変化するのかを意識して観察するようになりました。 今回は、その中で私自身が感じてきたことを書いてみたいと思います。 最初に明確にしておきますが、これは断食を勧める記事ではありません。 あくまで、私自身の身体で経験したことの記録です。 身体には、自分を守ろうとする反応があるのではないか 人間の身体を考えてみると、不思議な仕組みがたくさんあります。 目にほこりが入れば涙が出る。 暑ければ汗が出る。 身体に合わないものを食べれば、下痢や嘔吐が起きることもあります。 感染症などでは発熱することもあります。 こうした反応を見ていると、身体には外からの変化に対応し、一定の状態を保とうとする仕組みが備わっていることが分かります。 そこで私は、ある疑問を持つようになりました。 「体調が悪い時に食欲がなくなることにも、何か意味があるのではないか?」 ということです。 私自身、体調が悪い時には食べ物を欲しくなくなるだけでなく、普段吸っていたタバコまでおいしく感じなくなった経験があります。 その時には、 「今の身体は、食べ物や煙を欲しがっていないのではないか」 と感じました。 もちろん、これは「病気になったら食べない方がいい」という意味ではありません。 病気による食欲低下にはさまざまな原因があります。 ただ私は、身体に起きる変化を以前より注意して見るようになりました。 人間も、もともとは自然の中で生きていた もう一つ考えるようになったのが、人間の長い歴史です。 今の私たちは、 朝になれば朝食、昼になれば昼食、夜になれば夕食。 スーパーやコンビニへ行けば、24時間近く食べ物を手に入れることができます。 しかし、人類の歴史をずっと昔までさかのぼれば、そんな生活の方がむしろ新しいはずです。 狩猟や採集をして暮らしていた時代なら、十分な食べ物が手に入る日もあれば、思うように手に入らない日もあったでしょう。 野生動物も同じです。 毎日決まった時間に、決まった量の食事が出てくるわけではありません。 そう考えると、 「食べない時間があること自体は、人間にとってそれほど不自然なことではないのではないか」 と思うようになりました。 ただし、昔の人間や野生動物が食料不足を経験していたことと、現代人が意図的に長期間断食することは同じではありません。 ここから先は、あくまで私自身がそう考えるようになった、という話です。 最初の数日間は、やはり空腹が少し苦痛だった 断食というと、 「お腹が空いて大変ではないのか?」 と思う人が多いと思います。 私の場合も、始めた直後は少し苦痛です。 食べたいという感覚がありますし、最初から平気だったわけではありません。 ところが、ある程度日数が経つと、私の場合は空腹に対する感覚が変わってきました。 空腹をほとんど苦痛に感じなくなったのです。 それどころか、 「お腹が空いている状態が気持ちいい」 と感じることさえあります。 これは、実際に何度か経験して特に面白いと感じた変化の一つです。 私が何度も経験する中で感じた「断食 体の変化」について、今回はできるだけそのまま記録してみたいと思います。 断食で感じた体の変化――空腹・体重・睡眠 夜もすごく気持ちよく眠れる もう一つ私が感じるのが、睡眠です。 食べない期間がある程度続くと、私の場合は夜に凄くよく眠れるように感じます。 普通なら、 「お腹が空いて眠れないのでは?」 と思うところですが、私の場合は全くの逆でした。 そして20日近くになる頃には、 「このまま続けてもいいのではないか」 と思うほど、食べない状態そのものに慣れてしまったこともあります。 ただし、ここには注意が必要だと思っています。 「空腹を感じない」「気分がいい」「よく眠れる」ということと、身体に問題が起きていないことは同じではありません。 自覚症状だけで身体の安全性を判断することはできません。 体重は最初に減り、その後は変化が緩やかになった 体重の変化も興味深いものでした。 私の場合、食べなければ毎日同じように体重が減り続けるわけではありませんでした。 最初の3~5日ほどは比較的一気に大きく減ります。 体重が止まったところが「自分本来の体重」なのではないか 断食を何度か経験する中で、もう一つ私が考えるようになったことがあります。 私の場合、断食を始めると最初の数日で体重が比較的大きく減ります。 ところが、あるところまで来ると、それまでのようには減らなくなります。 私の場合は、58kg前後になると体重の変化がかなり小さくなりました。 そこで私は、 「もしかすると、このあたりが今の自分の身体にとって自然な体重なのではないか」 と考えるようになりました。 さらに、断食が終わって食事を戻した後についても、 「この体重から大きく増えない程度の食事量が、自分にとって適正な食事量なのではないか」 と思うようになりました。 つまり、一般的に「一日何kcal必要」「一日三食」と決めるだけではなく、自分の体重が長期的にどう動くかを見ながら、自分に必要な食事量を考えるという発想です。 もちろん、これは私自身の経験から考えるようになった一つの仮説です。 断食の最初に体重が大きく減る理由には、体脂肪だけでなく、水分、グリコーゲン、消化管の内容物などの変化もあります。 ですから、 「断食して体重が止まったところ=その人の医学的な適正体重」 と断定することはできません。 それでも私自身については、体重計の数字を毎日見ながら、 「自分の身体がどのあたりの体重で安定しようとするのか」 を観察することが、食べる量を考える一つの目安になっています。 なぜか太陽の光を浴びたくなる そして、もう一つ不思議な感覚があります。 断食を始めてしばらくすると、私はなぜか太陽の光を浴びたくなります。 外へ出て、日の光に当たることがとても気持ちよく感じるのです。 これが断食による身体の変化なのか、生活リズム、睡眠、気分など別の理由なのかは分かりません。 医学的な根拠を持って説明できることでもありません。 ただ、私自身には何度か同じ感覚がありました。 だからこれも、 「断食をすると太陽が必要になる」 と結論づけるのではなく、私自身が断食中に感じる変化の一つとして記録しておきたいと思います。 今の私は、完全な絶食にはしていない 最初に経験した約20日間の断食では、ほぼ水分だけで過ごしました。 しかし、その後何度か経験する中で、現在の私は必ずしも完全な絶食にはしていません。 その考え方にも、野生動物の生活が影響しています。 野生動物も、食べ物が十分に手に入らない日はあるでしょう。 しかし長期間、本当に何一つ口にできない状態ばかりとも限りません。 植物や木の実などの少量の食べ物にありつけることもあるはずです。 そう考えるうちに、 「食べるか、完全に何も食べないか」 という二択ではなく、 「ほとんど食べないけれど、ごく少量だけ食べる」 という方法も自分には合っているのではないかと思うようになりました。 1日あたりリンゴ1個、バナナ1本、ヨーグルト250g程度 現在、私が長く食べない期間をつくる時には、例えば、 リンゴを1個 バナナを1本 ヨーグルトを250g程度 といった、ごく少量だけ口にします。 私自身について言えば、この程度の食事量でも普通に日常生活を送れます。 ただし、これは非常に大切なので明確にしておきます。 「人間はリンゴ1個だけで生活できる」 と言っているわけではありません。 必要なエネルギーやタンパク質、ビタミン、ミネラルなどは、年齢、体格、活動量、健康状態などによって違います。 私にできたことが、他の人にも安全にできるという意味ではありません。 あくまで、私自身にはこういう経験があるということです。 肌は良くなると感じる。でも腰痛は変わらなかった 断食を何度か経験していると、良いと感じる変化だけではありません。 私の場合、断食をしている時には、肌や皮膚の状態が良くなるように感じることがあります。 しかし、これも私自身の感覚です。 断食に皮膚を改善する効果がある、と医学的に断定するものではありません。 一方で、はっきり変化を感じなかったものもあります。 例えば腰の痛みです。 食べない期間をつくっても、私の場合は腰の痛みが良くなったとは感じませんでした。 これは私にとって重要なことでした。 変化を感じるものもあれば、何も変わらないものもある。 だから私は、断食を「何にでも効く万能な健康法」だとは考えていません。 私が面白いと思うのは、自分の身体を観察すること 何度か断食を経験して、一番面白いと感じるようになったのは、 「食べないこと」そのものではありません。 食べる量を大きく変えた時、 空腹感はどうなるのか。 体重はどう変わるのか。 睡眠はどうなるのか。 気分はどう変わるのか。 身体のどこに変化を感じ、どこには何も起きないのか。 そうした自分の身体の反応を観察することです。 以前の私は、 「時間になったから食べる」 ということについて深く考えたこともありませんでした。 今は、 「本当に今、自分の身体は食べ物を欲しがっているのだろうか」 と考えることがあります。 断食を万能だとは考えていない 最後に、前回の記事と同じことをもう一度書いておきます。 この記事は、 「断食をした方がいい」 と勧めるために書いたものではありません。 長期間、極端に食事量を減らすことには、栄養不足、電解質異常、低血糖などの危険があります。また、長期間食べなかった後に食事を再開する際にも注意が必要です。 特に持病がある人や薬を服用している人が、私の経験をそのまま真似することは勧められません。 私は医師でも栄養学の専門家でもありません。 だからこそ、この記事では医学的な効果を断定するのではなく、 「私は実際にこう感じた」 ということだけを書くようにしました。 変化したものもある。 変化しなかったものもある。 分からないこともたくさんある。 それでも、何度か断食を経験したことで、 「人間にとって食べることとは何なのか。そして食べない時間とは何なのか」 以前よりずっと考えるようになりました。 それが今のところ、私が断食を経験して得た一番大きなものなのかもしれません。 協同組合かけはし/KAKEHASHI HUMAN MONGOL LLC  後藤友亮/GOTO YUSUKE 静岡県浜松市/モンゴル・ウランバートル     公式サイト:https://www.kakehasi.biz/

  • 20日間の断食体験――一日一食だった私が長期断食を始めたきっかけ

    第1回 もともと私は、若い頃から一日一食に近い生活をしてきました。 振り返ってみると、19歳で経営者になった頃からだったように思います。 若い頃は仕事に集中すると、食べることそのものを忘れてしまうことがありました。 食べられないわけではありません。 付き合いで昼食や夕食に誘われれば普通に食べましたし、たくさん食べようと思えば食べることもできました。 ただ単純に、食べることへの興味があまりなかったのだと思います。 感覚としては猫のようなもので、 「食べたい時に少し食べる」 そんな生活が自分には合っていました。 考えてみれば、私の方から誰かを食事に誘ったことも、ほとんどなかったように思います。 経営者だった頃には、従業員との食事に会社としてお金を使ったり、仕事の一環として夜の付き合いに出たりした時期もありました。 それでも、自分自身の楽しみとして食事に大きなお金を使うことは、あまりありませんでした。 年齢を重ねた今では、朝や昼に食べると、むしろ調子が悪く感じることがあります。 そのため、今でも一日一食という生活が私には自然です。 それまでの一日一食と「断食」は別物だった ただし、この頃の私は「健康のために断食をしよう」と考えて一日一食にしていたわけではありません。 単に食べることへの関心が薄かっただけです。 ある時、胸が頻繁に痛むようになった 私が本格的な長期断食をするようになったのには、まったく別のきっかけがあります。 40代中くらいだったと思います。経営者だった頃、仕事上の付き合いで夜遅くまで毎日外に出ることも多く、不眠不食に近い生活が続いていた時期がありました。 その影響だったのかどうかは分かりませんが、ある時から胸が頻繁に痛くなるようになりました。 さすがに気になり、近くの開業医を受診しました。 受付で問診票を記入すると、その内容を見た先生がすぐに優先して診察してくれました。 診察の結果、狭心症と診断され、そのまま救急車で聖隷病院へ搬送されることになりました。 病院では応急処置を受け、ニトログリセリンを処方され、その後、カテーテル治療を受ける予定になりました。 それまで普通に仕事をしていた私にとって、突然の出来事でした。 そして、このカテーテル治療を待つ約20日間が、私が初めて本格的な長期断食をするきっかけになります。 当然、不安はありました。 そんな時、ふと思い出した話がありました。 得意先で聞いた「野生動物と断食」の話を思い出した カテーテル治療を待つことになった時、ふと思い出した話がありました。 以前、得意先で世間話をしていた時、その方がドイツに住んでいる知人から聞いた話として、断食について話してくれたことがありました。 その中で特に私の記憶に残っていたのが、 「野生動物は毎日決まった時間に食べられるわけではない。空腹の時間があり、体調を崩した時には食べずに休み、体を回復させようとする」 というような話でした。 当時の私は医学的な知識があったわけではありません。 ただ、もともと若い頃から一日一食に近い生活で、食べること自体にもあまり興味がなかったため、 「人間も動物なのだから、食べない時間には何か意味があるのかもしれない」 という話が妙に頭に残っていました。 そして狭心症と診断され、カテーテル治療を待つことになった時、その話を思い出したのです。 そこで私は、 「手術までの間、自分でも試してみよう」 と思いました。 今振り返れば、かなり大胆なことをしたと思います。 ただ、もともと食べないことへの抵抗が少なかった私だからこそ、そう考えたのかもしれません。 その日からカテーテル治療を予定していた日まで、記憶では約20日間。 私は水分以外、食事を一切取らずに過ごしました。 ただ、もともと私は若い頃から一日一食に近い生活で、食べること自体にもそれほど興味がありませんでした。 だからこそ、「食べない」ということへの抵抗が、普通の人より少なかったのかもしれません。 約20日後、手術前の検査で起きたこと そして、カテーテル治療を予定していた時期になり、手術前の検査を受けました。 そこで、私にとって忘れられない出来事が起きました。 先生がパソコン画面に表示された検査画像を見ながら、当初問題になっていた部分が確認できないことに驚いていたのを覚えています。 結果として、予定されていたカテーテル治療を受けることはありませんでした。 そして私の場合、その後現在まで、当時のような胸の症状は一度も出ていません。 これは、私自身に実際に起きた出来事です。 ただし「断食で狭心症が治った」とは書けない ここは、とても大切なので明確にしておきます。 私は、 「20日間断食すれば狭心症が治る」 と言っているわけではありません。 そして、この方法を他の人に勧めるつもりもありません。 私に起きた変化が断食によるものだったのか。 最初と後の検査の違いだったのか。 応急処置や薬が影響したのか。 あるいは、私には分からない別の理由があったのか。 医学の専門家ではない私には、その因果関係を判断することはできません。 私が書けるのは、あくまで自分に起きた事実だけです。 狭心症と診断された。 ↓カテーテル治療を予定した。 ↓その間、約20日間食事を取らず水分だけで過ごした。 ↓手術前の検査では、当初問題となっていた所見が確認されなかった。 ↓予定されていた治療は受けなかった。 ↓その後、私の場合は同じ症状が出ていない。 この順番で出来事が起きた。 それ以上でも、それ以下でもありません。 それでも、この経験が私の考え方を変えた 医学的な因果関係は私には分かりません。 それでも、自分自身にとって非常に大きな出来事だったことは間違いありません。 それまで私にとって一日一食は、単に「食べることにあまり興味がない」という生活習慣でした。 しかし、この経験を境に、 「人間にとって、食べない時間とは何なのだろう」 と考えるようになりました。 人間も生物の一種です。 自然界の動物なら、毎日決まった時間に食べ物が用意されるわけではありません。 獲物が捕れず、食べられない日もあるでしょう。 そう考えていくうちに私は、 「一日三食を決まった時間に食べることだけが、人間にとって唯一の食生活なのだろうか」 と疑問を持つようになりました。 これは「三食は間違っている」という意味ではありません。 人によって体質も生活も違います。 ただ、私自身については、一日一食という生活が自然だった。 私にとってこの20日間の断食体験は、その後の一日一食や断食に対する考え方を大きく変える出来事になりました。 今では断食そのものへの恐怖はなくなった あの経験以降、私は断食を何度か経験するようになりました。 最初の頃とは違い、今では「食べないこと」そのものに対する恐怖はほとんどありません。 注意 : ただ、それは長年一日一食に近い生活をしてきた私自身の場合の話です。 長期間の断食には、脱水や電解質異常、低血糖、再び食事を始める際の問題など、重大な危険もあります。特に心臓に症状がある人が、私の経験を読んで同じことを自己判断で行うことは勧められません。これは健康法を勧める記事ではなく、私自身の人生の中で実際に起きた一つの体験の記録です。 そして振り返ってみると、現在の私の一日一食や断食に対する考え方の原点には、間違いなくあの時の経験があります。 この経験が、私の断食に対する考え方を大きく変えるきっかけになりました。 そして、その後も何度か断食を経験するうちに、空腹感、体重、睡眠、肌、太陽の光を浴びたくなる感覚など、自分の身体にいろいろな変化を感じるようになりました。 それについては、続編で書いてみたいと思います。 協同組合かけはし/KAKEHASHI HUMAN MONGOL LLC  後藤友亮/GOTO YUSUKE 静岡県浜松市/モンゴル・ウランバートル     公式サイト:https://www.kakehasi.biz/

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