100歳のおじいさんが今日、資料を届けてくれました――80年前の記憶が少しずつつながり始めた。100歳の男性が語るシベリア抑留の記憶

先日、毎朝5時半ごろから公園を掃除している100歳のおじいさんについて記事を書きました。
そして今日、そのおじいさんが私のところへ、たくさんの資料を届けてくれました。

戦争が終わった後、中国で捕虜となり、その後、旧ソ連へ送られ、現在のカザフスタンにあるカラガンダで炭鉱の仕事をしていた方です。
前回の記事はこちらです。 100歳が語るカラガンダ抑留――中国で捕虜となり炭鉱へ送られた記憶
そして今日。
そのおじいさんが、私のところへたくさんの資料を届けてくれました。
古い新聞記事。

満州の地図。

100歳の男性が語るシベリア抑留の記憶
シベリア抑留についての記事。
当時の鉄道や収容所を示した資料。
満蒙開拓青少年義勇軍や満州開拓団についての記事。
そして、その中には、おじいさん自身が以前インタビューを受け、写真とともに掲載された資料もありました。
私は、それを見て少し驚きました。
私が最近聞き始めた話は、本人の中だけに残っていた記憶ではなかったのです。
これまでにも何度か取材を受け、自分の経験を残してきた方だったのです。
中学2年生くらいの年齢で志願し、満州へ
以前、本人から、
「中学2年生くらいで志願して中国へ行った」
という話を聞いていました。
最初はあまりにも若いので、私自身、
「本当にそんな年齢だったのだろうか」
と思ったほどです。
しかし、今回持ってきてくれた資料を見ていくと、当時は14歳、15歳ほどの少年たちが満蒙開拓青少年義勇軍として満州へ渡っていたことが分かります。
本人から聞いていた話と、当時の制度や資料が少しずつ重なってきました。
まだ学校や訓練所の正式名称、満州で過ごした場所など、本人にもう一度確認したいことがあります。
ただ、前回まで断片的だった話が、資料によって少しずつ一本につながってきています。
ウラジオストクを経由し、貨物列車ですし詰めに
本人から直接聞いて、特に印象に残っているのが移送の話です。
戦争に負けて捕虜となった後、ウラジオストクを経由し、その後もずっと列車で移動したそうです。
しかも客車ではありません。
貨物列車に大勢の人がすし詰めにされた状態だった。
この時のことについては、本人も、
「あれはひどかった。つらかった」
とはっきり話していました。
炭鉱の仕事については、
「中は暖かかったから、それほど苦ではなかった」
と話す人が、貨物列車での移送については「つらかった」と言う。
その違いが、私にはとても印象的でした。
カラガンダが載った収容所分布図もあった
今回の資料の中には、旧ソ連各地の日本人収容所を示した地図もありました。
そこには、
カラガンダ
の名前もはっきり載っています。
これまで私は本人から、
「カラガンダで約2年間、炭鉱で働いた」
と聞いてきました。
今回、そのカラガンダが地図の上に現れました。
もちろん、地図に地名が載っているからといって、それだけで本人のすべての行動が証明されるわけではありません。
しかし本人の証言と、残されている歴史資料を一つずつ照らし合わせていけば、80年ほど前の移動経路をかなり詳しく再現できるかもしれません。
「炭鉱は暖かかった。でも伐採は……」
本人から聞いた話の中で、もう一つ忘れられないものがあります。
カラガンダの冬は、外がマイナス40℃ほどになることもあったそうです。
ところが地下の炭鉱は暖かかった。
そのため本人は、
「炭鉱はまだ良かった」
と話しています。
一方、屋外の木材伐採に回された捕虜については、寒さが非常に厳しく、多くの人が亡くなったという記憶を話してくれました。
今回持ってきてくれた新聞資料の中にも、旧ソ連で木材伐採などの強制労働を経験した別の抑留者の記事がありました。
極寒。
飢え。
長時間の労働。
仲間の死。
本人が話していることと、別の抑留経験者の証言が重なる部分があります。
ただ、ここは慎重に残したいと思っています。
本人が実際に体験したこと。本人が当時聞いたこと。他の人の新聞証言。
この三つは、混ぜずに分けて記録していきます。
「ロシア人の方が良かった」の意味も分かってきた
前回の記事を書いた時点では、
「ロシア人の方が扱いは良かった」
という言葉の意味が、まだよく分かっていませんでした。
その後、詳しく聞いてみました。
比較していたのは、ロシア人と、日本人の上官や中国側の人たちだったようです。
本人の話では、捕虜になった後も、日本人の上官の中には部下に暴力を振るったり、威張ったりする人がいたそうです。
その一方で、本人の記憶の中ではロシア人の方が扱いが良かった。
戦争で捕虜となり、旧ソ連へ送られた人から、
「ロシア人の方が良かった」
という言葉が出てくる。
私は、この話を単純に「どこの国が良い、悪い」という話にはしたくありません。
極限の状況に置かれた一人の人間が、80年以上たった今でも、
誰が自分にどう接したのか
を覚えている。
そこに価値があると思っています。
そして今日、資料をわざわざ届けてくれた
それにしても、私は今日のことがうれしかったです。
101歳の方が、自分で大切に残してきた資料を、
「これを見てみな」
というように私のところまで持ってきてくれた。
私は以前、この方が私の姿をしばらく見なかっただけで心配してくれていたことを書きました。
モンゴルから帰って公園へ行ったときには、私を見つけて背中をポンポンとたたき、とても喜んでくれました。
そして今度は、自分の人生に関わる資料を持ってきてくれました。
もしかすると、
「もう少し話を聞いてほしい」
と思ってくれているのかもしれません。
そう考えると、いい加減には扱えません。
次は、記憶を一本の線にしてみたい
次に会った時には、資料と地図を机に広げて聞いてみようと思います。
14歳くらいで何に志願したのか。
日本のどこから満州へ渡ったのか。
最初に着いた町はどこだったのか。
4年間、どこで何をしていたのか。
終戦の日はどこにいたのか。
中国での捕虜生活はどのくらい続いたのか。
ウラジオストクへどう移動したのか。
貨物列車で何日くらい移動したのか。
そしてカラガンダ。
炭鉱。
帰国。
本人は地名を驚くほど細かく覚えています。
前に話を聞いた時など、あまりに次々と地名が出てくるので、聞いていた私たちの方が覚えきれず、思わず笑ってしまったほどです。
次は覚えようとはしません。
本人の了承をもらい、きちんと記録に残そうと思います。
1000記事を書く途中で、こんな出会いがあるとは思わなかった
私はホームページの記事を1000本書くことを一つの目標にしています。
経済やAI、モンゴル、不動産、車など、いろいろなことを書いてきました。
でも最近、
記事を書くということは、検索されるためだけではない
と感じることがあります。
今回もそうです。
毎朝の犬の散歩で偶然知り合った101歳のおじいさん。
いつも公園を掃除している、ごく普通のおじいさんだと思っていました。
ところが話を聞いてみると、その人の中には、80年以上前の満州、戦争、捕虜、ウラジオストク、カラガンダ、炭鉱、そして帰国までの記憶が残っていた。
そして今日、その記憶を裏付けたり、当時の時代背景を知るための資料を、本人が私のところへ届けてくれました。
この話は、もう少し時間をかけて聞いてみようと思います。
歴史の本だけでは分からない、
実際にその時代を生きた人が、100年以上の人生の最後に何を覚えているのか。
それを、できるだけ本人の言葉のまま残してみたいと思っています。
協同組合かけはし/KAKEHASHI HUMAN MONGOL LLC 後藤友亮/GOTO YUSUKE
静岡県浜松市/モンゴル・ウランバートル 公式サイト:https://www.kakehasi.biz/



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