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100歳のおじいさんの記憶が一本の線につながり始めた――満州、奉天、そしてカラガンダへ

10 時間前
読了時間: 9分
100歳の男性が自宅で資料を手にし、満州から奉天、カラガンダまでの戦争体験を語る様子

100歳の男性が語るシベリア抑留の記憶


私は毎朝5時半から6時ごろ、犬の散歩をしています。


その時間になると、公園を掃除している方々がいます。


その中に、100歳になるおじいさんがいます。


今でも自分の足で歩き、毎朝のように公園へ来て掃除をしている方です。


以前、私がしばらくモンゴルへ行っていて公園に姿を見せなかったときには、帰国して久しぶりに会った私の背中をポンポンとたたき、とても喜んでくれました。


そこから少しずつ話をするようになり、私はこの方が若いころに経験した、驚くような人生を知ることになりました。


前回の記事では、戦争が終わったあと旧ソ連へ送られ、現在のカザフスタンにあるカラガンダの炭鉱で約2年間を過ごした話を中心に紹介しました。


そしてその後、本人が自宅で大切に保管していた新聞記事や戦争関係の資料を、わざわざ私のところまで届けてくれました。


満州についての記事。


シベリア抑留の記事。


カラガンダが記された地図。


強制労働についての記事。


そして、ご本人自身が以前インタビューを受けた新聞記事も含まれていました。


今日は、今度はこちらからご自宅を訪ねました。


玄関を開けると、いつものような優しい表情で迎えてくれました。


公園での立ち話では断片的だった記憶も、今日は資料を見せてもらいながら、最初から順番にゆっくり聞くことができました。


すると、今まで点だった話が、ようやく一本の線になり始めました。


16歳ごろ、満蒙開拓青少年義勇軍へ志願

今回、本人は、

「志願したのは16歳」

と話していました。


過去の資料には年齢について少し異なる記述もあるため、正確な年齢や年については、もう一度確認してみたいと思っています。


いずれにしても、今でいえば中高生ほどの年齢で、自ら志願して満州へ向かったことになります。


志願したあと、まず行ったのは海外ではありませんでした。


茨城県にあった、


満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所

へ入ったそうです。


そこで約3か月間、さまざまな訓練を受けました。


そして6月ごろ、日本を出発します。


本人の話では福井県の港から出たとのことでした。


以前届けてもらった資料には敦賀の名前も出ているため、ここも今後もう一度確認してみたいと思っています。


朝鮮へ渡り、満州鉄道で北の国境へ

福井から海を渡り、まず朝鮮へ。


そこから満州鉄道に乗ったそうです。


列車は北へ北へと進み、

本人の言葉では、

「一番上の国境まで行った」

といいます。


国境近くには訓練所があり、そこで約4年間を過ごしたそうです。


この方は、当時の地名を本当によく覚えています。


以前、公園で話を聞いたときも、次から次へと地名が出てきました。


聞いていた私だけでなく、周りにいた方たちまで覚えきれず、思わず笑ってしまったほどです。


100歳の本人の方が、80年以上前の地名を私たちよりよく覚えている。


これには本当に驚かされます。


20歳ごろ、奉天の通信兵部隊へ

国境近くで約4年間を過ごしたあと、20歳ごろに関東軍の検査を受けたそうです。

そして今度は南へ下りました。


行き先は、

奉天。


現在の中国・瀋陽です。


奉天では通信兵の部隊に入りました。


本人の記憶では、そこにいたのは約3か月。


そして、その奉天で終戦を迎えます。


今回の聞き取りで、

「日本の敗戦を迎えた場所は奉天だった」

ということが、かなりはっきりしました。


「戦争が終わった。これで日本へ帰れる」

終戦。


本人は当然、

「これで日本へ帰れる」

と思ったそうです。


しかし、実際には帰ることができませんでした。


本人の話では、朝鮮方面を通って帰ることができず、旧ソ連側へ送られることになったといいます。


ここからの話には、

ウラジオストク

そして、

ナホトカ

という地名が出てきました。


移動に使われたのは普通の客車ではありません。


貨物列車です。


しかも大勢の日本人が、

すし詰めにされた状態

だったそうです。


この移送についてだけは、本人も、

「あれはひどかった。つらかった」

とはっきり話していました。


昔の厳しい経験について、普段はそれほど辛そうに話さない方です。


その方がはっきり「つらかった」と言う。


私はそこが強く印象に残りました。


列車は、日本とは反対方向へ進んでいった

日本へ帰れると思っていた。


ところが列車は、日本へ向かいませんでした。


本人の表現では、

「反対側へ行ってしまった」

そうです。


列車は旧ソ連の奥へ奥へと進みます。


話の中には、

バイカル湖

という名前も出てきました。


そして長い移動の末にたどり着いたのが、

カラガンダ。


現在のカザフスタンにある炭鉱の街です。


本人はそこで、およそ2年間を過ごしました。


「炭鉱は暖かかったから良かった」

カラガンダでは炭鉱の仕事に就いたそうです。


冬の外は非常に寒く、以前聞いた話ではマイナス40℃近くになることもあったといいます。

ところが炭鉱について聞くと、本人は意外なことを言います。


「炭鉱は暖かかったから良かった」

というのです。


地下なので、猛烈な寒さの屋外と比べれば暖かい。


本人にとっては、それがかなり大きかったようです。


一方、屋外で木材の伐採に回された捕虜については、厳しい寒さの中で働かなければならず、多くの人が亡くなったと記憶しています。


ここについては、

本人が実際に見たことなのか。


当時、周囲から聞いた話なのか。


そこも今後もう少し詳しく聞いてみたいと思っています。


「ロシア人の方が良かった」

以前から、本人が何度か話していた言葉があります。


「ロシア人の方が良かった」

最初に聞いたとき、私は少し驚きました。


戦争に負け、旧ソ連へ送られ、捕虜として暮らした人です。


普通に考えれば、ロシア人に対する悪い記憶が残っていても不思議ではありません。


ところが、詳しく聞いてみると、この言葉の意味が分かってきました。


本人が比較していたのは、中国側の人たちや、そして日本人の上官だったようです。


本人によれば、捕虜になったあとも、日本人上官の中には部下に暴力を振るったり、威張ったりする人がいたそうです。


戦争に負け、全員が捕虜という立場になっても、それまでの上下関係を引きずっていた人がいた。


そんな経験と比べて、

「ロシア人の方が扱いは良かった」

という記憶が残っているようです。


私は、この話を「どこの国が良い」「どこの国が悪い」という単純な話にはしたくありません。


極限状態に置かれた一人の人間が、

誰が自分にどう接したのか。


80年以上たった今でも、それを覚えている。

そこに、この証言の意味があるように感じています。


カラガンダには約2年

今回、

「ロシアにはどのくらいいたんですか」

と改めて聞いてみました。

本人の答えは、

「2年くらい」

でした。


厳密には2年より少し短かった可能性もありそうですが、おおよそ2年間だったという記憶です。


そして本人は、

比較的早く日本へ帰ることができた

と考えています。


同じ収容所には、広島や四国などから来た部隊の人たちもいたそうです。


本人の記憶では、その人たちが帰国することになり、

「同じ収容所にいたから、自分も一緒に帰れたのだと思う」

と話していました。


以前、

「早く帰れて良かった」

と言っていた理由も、このあたりにあるようです。


ただし、なぜその部隊が帰還することになったのかについては、本人の記憶だけで断定せず、今後資料とも照らし合わせてみたいと思っています。


本人が資料を届けてくれたこと

今回、私は戦争の資料そのものにも興味を持ちました。


しかし、それ以上にうれしかったことがあります。


本人が、自分で長い間大切に保管してきた新聞記事や戦争関係の資料を、わざわざ私のところまで届けてくれたことです。


前回の記事を書いたことで、

「もう少し話しておこう」

と思ってくれたのかもしれません。


本人がそう言ったわけではありません。


それでも、私にはそんなふうに感じられました。


そして今日は、今度は私がご自宅へ伺いました。


玄関で迎えてくれた100歳のおじいさんと、資料を見ながら話をしていると、

公園でいつも会っている人の中に、こんなにも長い歴史が残っているのだと、改めて感じました。


100歳の今も、毎朝公園を掃除している

満州へ渡った少年時代。


奉天で迎えた終戦。


帰国できると思った直後の抑留。


すし詰めの貨物列車。


ウラジオストク。


バイカル湖。


そしてカラガンダ。


炭鉱での約2年間。


その話をしている本人が、今は100歳です。


そして今でも毎朝5時半ごろになると、公園へ来て掃除をしています。


私は最初、この方がそんな人生を歩んできたとは全く知りませんでした。


ただ、毎朝公園をきれいにしている元気なおじいさんだと思っていました。


しかし、少し話を聞いただけで、その人の中から80年以上前の歴史が次々と出てきた。

人は、見ただけでは本当に分からないものだと思います。


分からないことは、分からないまま残す

今回の聞き取りで、かなり多くのことがつながりました。


一方で、まだ確認したい部分もあります。


志願した正確な年齢と年。


北の国境近くにあった訓練所の場所。


奉天で所属していた通信兵部隊の正式名称。


奉天からウラジオストク、ナホトカ、バイカル湖、カラガンダまでの正確な経路。

帰国に至った詳しい経緯。


これらを、私の想像で埋めるつもりはありません。


本人が話したこと。


本人が保管していた資料に書かれていること。


歴史資料で確認できたこと。


この三つを分けながら、一つずつ確かめたいと思っています。


100歳になった今も、本人の中には驚くほど鮮明な記憶があります。


次に会ったときには、また続きを聞かせてもらおうと思っています。


そして今度も、私が覚えるのではなく、きちんと記録として残していきたいと思います。


※資料は別画面で閲覧できます。



そして、この記事を書きながら思ったこと

今回、100歳のおじいさんから話を聞き、資料を見せてもらい、地名や時代背景を一つずつ確認しながら記事にしていきました。


少し前なら、これだけの内容をまとめるには、かなりの時間と知識が必要だったと思います。


歴史を調べる人。


文章を書く人。


資料を整理する人。


画像を作る人。


それぞれの力が必要でした。


しかし今は、AIを使えば、こんな複雑な記事でも一人でも数時間のうちに形にできます。


そう考えると、これからは「頭が良い」という意味そのものが、少しずつ変わっていくのかもしれません。


たくさん覚えていること。


文章を速く書けること。


資料をきれいに整理できること。


もちろん、どれも大切です。


でも、それ以上に大事になるのは、

何に気づくか。

何を疑問に思うか。

誰に何を聞くか。

そして、集まった情報の中から何を残し、何を捨てるか。


そんな「判断する力」なのかもしれません。


これからは、

「自分で全部できる人」より、「何をやるべきかを見つけて、AIを使って形にできる人」


の方が強くなる時代なのかもしれない。


今回の記事を作りながら、私はそんなことも感じました。


協同組合かけはし/KAKEHASHI  HUMAN  MONGOL  LLC  後藤友亮/GOTO YUSUKE 

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