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林業の職人さんに教わり、チェンソー作業の安全装備をそろえました
林業の現場を見学し、職人さんからチェンソー作業の危険性や安全対策を教えていただきました。自己流で作業してきたことを見直し、安全装備・保護具を購入。実際の経験から、安全第一の大切さを改めて感じました。

後藤 友亮
7月20日読了時間: 2分


過去と今、その両方を実際に体験したからこそ、どちらが本当に良かったのかが見えてくるのだと思います。
少なくとも日本は、世界の中でも国民全体がそれを比較的早く体験できた国ではないでしょうか。 豊かさや便利さを誰よりも早く手に入れた一方で、それによって失ったものや、昔の暮らしの良さにも気づけるようになった。 それは、今の便利さしか知らない国には、まだわからない感覚かもしれません。 世の中には、ただ前へ前へと突き進むことを良しとする国民性もあります。 そんな中で、日本人が「昔の暮らしのほうが良かった」と感じられるのは、便利さや物の多さでは埋まらないものがあると、すでに体験として知っているからだと思います。 本当に大切なのは、物質的な豊かさではなく、心の落ち着きや安心感、人とのつながりといった精神的な豊かさ。 日本人は、それをどこかで気づき始めているのではないでしょうか。 しかし、まだそこを体験していない国々は、見栄や嫉妬、競争心に突き動かされながら、これから同じ道を進んでいくのでしょう。 それもまた、人間社会の流れなのだと思います。 だからこそ、昔の暮らしのほうが良かったと感じられる日本は、ある意味では幸せな国なのかもしれません。...

後藤 友亮
7月20日読了時間: 1分


トラクターで残り半分の畑を耕そうと、天竜区の古民家へ向かったものの、いざ作業を始めようとするとエンジンがかからず断念。2026年4月21日
トラクターで残り半分の畑を耕そうと、天竜区の古民家へ向かったものの、いざ作業を始めようとするとエンジンがかからず断念。 バッテリーケーブル、ダイナモ、セルモーターにも異常は見当たらず、自分では原因がまったく分かりませんでした。 そこで近所の方に農機具屋さんを紹介していただき、伺ってみたところ、故障箇所はすぐに判明。原因はまさかのエンジンキースイッチの故障でした。 このトラクターはかなり古い機種ですが、「とにかく丈夫で壊れにくい」とのこと。しかも、今でも部品があるそうで、本当に助かりました。 ただ、農機具屋さんの話では、今この機種を持っている人は知る限りでも3台ほどしかいないそうです。 さらに車体を見ながら、「これ、ほとんど使ってないね」と言われ、使用時間の少なさにも驚かれていました。 交換についても「自分でやってみたら」と、丁寧に取り替え方まで教えていただき、とても親切に対応してもらえました。 ひとまず今は部品待ち。 古い機械でも、丈夫さと人のつながりに助けられた一日でした。

後藤 友亮
7月20日読了時間: 1分


私が「何も起きない朝」を、人生で一番の贅沢だと思う理由
子どもの頃、私には「いつか憧れていた車や船を手に入れたい」という夢がありました。 長年働いた結果、その夢は実現しました。 ところが、実際に手に入れてみると、ほとんど乗りませんでした。 最近になって、その理由がようやく分かってきました。 私が本当に求めていたのは、贅沢な暮らしではなく、子どもの頃の夢を一度、自分の力で実現することだったのだと思います。 選択肢がなく始めた経営者 私は19歳で起業しました。 若い頃から経営者を目指していたわけではありません。 人の指示どおりに動くことが苦手で、学校の勉強も得意ではありませんでした。 会社に入り、上司の指示を受けながら働き続けることも、自分には難しい。 だから、人に使われるのではなく、自分で仕事をするしかなかった。 言ってしまえば、仕方なく経営者になったのです。 それから56歳で引退するまで、35年以上にわたって仕事を続けました。 経営者は、会社を離れても経営者です。 売上、人件費、資金繰り、税金、事故、従業員、お客さんへの対応。 家に帰っても、旅行へ行っても、頭のどこかで会社のことを考えていました。..

後藤 友亮
7月20日読了時間: 6分



後藤 友亮
7月20日読了時間: 0分


第8章 因果応報は、体験でしか理解できない
あるとき、子どもがこんなことを言いました。 「これらのことは、残念ながら因果応報を今世のうちに一通り体験できた人にしか、本当の意味では理解できないと思う」 その言葉を聞いたとき、私は強く頷きました。 なぜなら私自身、因果応報というものは、本を読んだり、人から教えてもらったりするだけでは、本当の意味では分からないのではないかと感じていたからです。 自分がしたこと。 自分が選んだこと。 人に対して取った態度。 それらが何年も経って、まったく違う形で自分に返ってくる。 良いこともあれば、苦しいこともあります。 そして実際に自分の身に起きたとき、 「もしかすると、あのときの自分の選択とつながっているのではないか」 と初めて気づくことがあります。 私にとって因果応報とは、単なる知識や概念ではありません。 自分自身の人生を通して、少しずつ理解していくものなのです。 もし「地球は学校である」という仮説が正しいとすれば、人生で起きる出来事の中には、私たち自身に何かを気づかせるための「問題」が含まれているのかもしれません。 そして、ある問題の意味に気づかなければ、

後藤 友亮
7月19日読了時間: 5分


学歴も知識もない私が、なぜ今ここにいるのか
「地球は学校である」 この仮説を考えるようになった背景には、私自身の人生があります。 私は昔から、人から教わって覚えることが、とても苦手でした。 小中学校では勉強についていくことができず、テストはほとんど0点。 書ける漢字もごくわずかで、今でもローマ字もよく分かりません。 一時は特殊学級に入ったこともあります。 その後、高校にも進学しましたが、やはり学校という環境になじめず、入学と中退を繰り返しました。 自動車学校すら途中で辞めています。 今振り返ってみると、私は「人から教えてもらい、それを覚える」という一般的な学び方が、昔から本当に苦手だったのだと思います。 学校で学べなかった私は、社会で学ぶことになった 人の意見を聞きながら、組織の中で働くことも得意ではありませんでした。 しかし、生きていくためには仕事をしなければなりません。 そこで19歳から、自分で商売を始めました。 そこから先は、教科書ではなく、実際の出来事から学ぶ人生になりました。 商売を始める。 失敗する。 考える。 別の方法を試す。 うまくいけば続ける。 また問題が起きれば考え直す

後藤 友亮
7月19日読了時間: 5分


9章 因果応報は罰ではない――私が「人生の成績表」だと考える理由
私は、因果応報というものを、単なる「罰」や「報い」だとは考えていません。 むしろ、自分がどのように生きてきたのかを振り返るために、この地球という学校から渡される「成績表」のようなものではないかと思っています。 自分が何を選び、どのような行動をし、どんな気持ちで人と関わってきたのか。 その結果が、すぐにではなくても、いつか別の形で自分に返ってくる。 私はこれまでの人生を振り返り、そのように感じることが何度もありました。 ただし、誰かに起きた不幸を見て、「それは因果応報だ」と決めつけることには、慎重でなければならないと思います。 人には、他人からは見えない事情があります。 因果応報という考え方は、他人を評価したり責めたりするためではなく、あくまで自分自身の生き方を見直すためにあるのではないでしょうか。 何かが起きたとき、すべてを「運が良かった」「運が悪かった」だけで終わらせず、 「この出来事から、自分は何を学べるのだろう」 と考えてみる。 そこに気づければ、同じことを繰り返さずに済むかもしれません。 反対に、何も受け取らず、同じ行動を続けていれば、似

後藤 友亮
7月19日読了時間: 3分


「止まれる人」だけが拾える利益がある」2026年1月9日
経営を引退してから実質的に約1年半が経ち、最近もう一つ、はっきりと腑に落ちたことがあります。 それは、「常に情報を拾えるようになり、必要なときにすぐ動ける状態」でいられることの強さです。 振り返ると、これこそが引退して得た一番の収穫だったのかもしれません。 経営していた頃は、日々の判断や責任に追われ、時間も気持ちも常にギリギリでした。 本業を優先するあまり、気づいてはいても「後でやろう」と先送りし、 結果的に、取りにいけば取れたはずのチャンスを何度も逃してきたと思います。 今は違います。 情報を見たその場で噛み砕き、必要ならすぐ判断し、処理する。 この「間を空けない」ことの差は、想像していた以上に大きいと実感しています。 ネット上でもよく言われていますが、 今の時代は「情報が多い」のではなく、「情報の入れ替わりが異常に速い」。 この環境では、能力や経験よりも、 精神的な余裕と時間を持てているかどうかが、結果を大きく分けます。 時間の流れが加速する今だからこそ、 無理に動き続けることより、一度立ち止まり、余白を確保すること。 それが遠回りに見えて、

後藤 友亮
7月19日読了時間: 1分


地球は魂を育てる学校なのか――輪廻転生と因果応報について考えたこと
現実世界で起きるさまざまな出来事を見ているうちに、私の中に、新しい考えが浮かぶようになりました。 人の魂は、一度の人生だけですべてを学ぶのではなく、成熟するまで何度か生まれ変わるのではないか。 そして、次も必ず人間として生まれるとは限らないのではないか。 もちろん、これは証明できる話ではありません。 あくまで、これまでの人生経験を通して、私が感じるようになった一つの仮説です。 言葉を持たない生き物から感じること 以前から私は、ときどき動物と出会った際に、「どこかで会ったことがあるような感覚」を覚えることがありました。 そのたびに、なぜ人間には言葉があり、ほかの生き物には、人間と同じ言葉がないのだろうと考えてきました。 動物にも感情や意思があり、それぞれの方法で私たちに伝えようとしています。 しかし、その気持ちを人間の言葉で説明することはできません。 以前の私は、そこに何らかの厳しい制限があるのではないかと考えました。 もしかすると、魂は生まれる生命の形によって、それぞれ異なる環境や制限を経験するのかもしれません。 ただ、それを罰と決めつけたり、人

後藤 友亮
7月18日読了時間: 6分
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