【私の行き当たりばったりと言う美学 ― 内なる導きに従って生きる】2025年5月15日
- 後藤 友亮

- 7月18日
- 読了時間: 2分
これまでを振り返ってみると、私が関わってきた事業は、けして大きくはありませんが、どれも不思議なほど短期間でそれなりの形になってきました。学歴があったわけでもなければ、修行を積んだわけでも、綿密な計画を立てて始めたわけでもありません。むしろ「行き当たりばったり」で準備ゼロのまま、その瞬間に感じた流れに身を委ねてきたのが正直なところです。
というのも、私はもともと事前に細かく準備したり、先の展開を段取りよく整えるということが得意ではありません。そのかわり、不思議と「未来を読み解く力」には自信がありました。それは、これまでその通りになったと言う裏打ちされた自信からです。
気づけば、目の前に現れた流れに導かれるようにして物事が動き出し、必要なタイミングで、必要な情報や人が自然と現れてくる。ただ私は、それに応えてきただけなのだと、心からそう思っています。
もちろん、人から学ぶことがすべて無意味だとは思っていません。ただ、私にとってそれは時に、自分本来の感覚を曇らせてしまうことではと思っています。他人の言葉や方法に強く影響されすぎると、知らず知らずのうちに、自分の核が無くなってしまう。
そしてそもそも、「言葉」がなければ、人と人との争いすら起きないというのも、ある意味で事実なのかもしれません。学びも争いも、突き詰めれば“言葉”というフィルターを通して起こっているのです。
私は思います。
本当に大切なことは、必要なときに自然と見えてくるということ。
そしてその瞬間には、自分の身体も心も、無意識に動き出すものだということを。
だから私は、外から与えられる「正解」よりも、内側から湧き上がる衝動を信じて生きてきました。
他者から聞いた事が本当に正しいかどうかなんて、結局のところ後になってみなければ分からない。
けれど、私のこれまでの経験のなかで、最終的に「失敗だった」と思うような出来事は一度もありません。一般的には不運とされる事でも、それを楽しみに変え、私は日々に不満を感じることなく生きてきました。
たとえ物事が不完全なかたちで終わったとしても、それはそのときの自分にとって最善の選択であり、必要なプロセスだったのだと思っています。
人生は、知識や努力だけでは説明しきれない何かに支えられている。
ただ、多くの人は全てを「自分の力」だと信じ込み、その“何か”の存在に気づくことなく生きているだけなのかもしれません。
私は今も、その何かに導かれて生きていると、そう信じています。





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